【2023年度哲学思想研究会部誌収録文章】(無題)

霜月
 
両腕を上げ、指先までぴんと伸ばすその動きを合図に、私たちは楽器を構える。
全神経を集中させ、何もかもが永遠に眠ってしまったその瞬間に私たちだけが息をするのを許される。

7分間だけの物語。

小学生の頃の私は、音楽に対して特に強い思いがあったわけではない。幼馴染の香織と一緒になんとなくで音楽クラブに入ったため完全にお遊び感覚で、月に2、3回の放課後練習と発表会の少し前から週に1回昼休み練習があるくらいの、管楽器クラブのなりそこないのようなものに参加していた。
演奏はとても人前に出れるようなレベルではなかったし、(まあ小学生の演奏のほとんどはそんなものであるが)近所の小さなイベントや学校内の行事で演奏をしていた。
私が管楽器をやり始めたことは、今思うに全くの運命である。
小学生の時、音楽の先生のピアノがとても綺麗で、声がとても麗らかで、なにより魅力的だったのだ。
私は先生に憧憬していた。
その先生がある日の授業終わりに、「名雪さん、音楽クラブに入らない?」と声をかけてきた。幼い私はとても驚いたが二つ返事で承諾した。楽譜なんて生まれてから読んだことなど無かったが、それよりも先生が私を勧誘してくれた事実が幼心ながらに嬉しかったのを今でも覚えている。
それからというもの、私の生活には常に音楽がまとわりついていた。
結局、一度音楽の魅力を知ってしまった人間は、音楽から抜け出せないのかもしれない。
小学校を卒業すると、近くの中学校へ入学した。

そこでも私は音楽に拐かされた。

東校舎の3階。中央の階段から上ってきて左に曲がる。廊下の1番奥。そこに例の教室があった。
入部は決まっていたようなものであった。見学にも全く行かず入部届を記入し、入部期間が始まってすぐに提出した。
なぜそんなにすぐに決断できたのだろうか。やはり、音楽に騙されているのではないだろうか。いや、きっとそんなことはないのだけれど。

入部したての頃は、アルトサックスパートの先輩の目つきがとても怖く、怯えていた。中学1年生にとって、中学3年生は熊みたいなものだ。今にも取って食われてしまうのではないかと思うほどである。

そんな先輩は身が焦げるほどに美しい音色を奏でた。たった一瞬で私は先輩の音楽に惚れてしまった。
言うなれば一聴き惚れ。
 
「田沼先輩の音は、なんていうか、ビリビリ来るよね。」部活前の休み時間、真由が楽譜に書き込みをしながらぽつりと呟いた。
同期の真由はテナーサックスパートに入っていて、田沼先輩の近くで彼女の音を聞くことができる。正直羨ましい。
私はトランペットパートだから、合奏時はどう頑張っても先輩の近くには座れない。
このどうしようもない距離が逆に先輩の音への憧れを強めているのかもしれないのは言うまでもなかった。
近くで吹きたい。

入部してから早3ヶ月。あっという間にコンクールの時期が近づいてきた。
今年のコンクール曲は保科洋先生作曲の「風紋」
入部して初めてのコンクール。
先輩たちにとっては最後のコンクール。
私たちは先輩たちに最後のコンクールで金賞を、と必死になっていた。

部室の後ろの壁には紫外線で少し傷んでいる模造紙が、いつも私たちの合奏を聴いている。
「最高でも金 最低でも金」そこにはそう書いてあった。おそらく歴代の先輩が書いたのだろう。
実は数年前までここの吹奏楽部は強かったらしい。前の先生が異動になり、大して部活動に熱意のない音楽の先生が入ってきたため、去年は銅賞。金賞は最後にとれたのが8年前らしく、しばらくの間銀賞止まりが続いていた。今年になって音楽の先生が吹奏楽部の担当を降りたことで、ようやっと部全体の音楽への熱が上がってきたそうだ。

金賞というのは頑張って取れるものではない。頑張って頑張って、それでも取れない時はあるのだ。
銀賞と金賞の境目が一体なんなのか、それは金賞を取ることができた学校でも言葉にするのは難しいだろう。
私たちはただひたすらに練習した。

ギラリとした太陽に躰が溶けてしまいそうな毎日。
コンクール2週間前にもなると先輩方ともだいぶ仲良くなっていた。
昼休憩で王様ゲームなんかしたり、廊下でコンクール曲のそれぞれのパートを歌いながら踊ったり。

校庭で野球部やサッカー部なんかが小麦色になっていく中、私たちはいよいよコンクール練習の追い込みに入った。

小休憩
 
水道で水を飲むために教室を出ると、田沼先輩が廊下で「風紋」のワンフレーズを何度も何度も吹いている。
「田沼先輩の音は、なんていうか、ビリビリ来るよね。」いつぞやに真由が言っていたのを思い出した。
彼女の祖父は地域の吹奏楽団の指揮者だ。小さい頃に連れて行ってもらった吹奏楽コンサートでテナーサックスの音に惚れ、小学校に入学した頃から練習していたらしい。
今でも小柄な真由が一生懸命テナーサックスを肩にかけている様子を想像するとなんだか自然と笑みが溢れる。健気で可愛らしい。
小さい頃から音楽に触れている人たちというのは皆、音楽のセンスが磨かれているためか独特の感性をもっている人が多いように感じる。
真由自身も語彙力こそ乏しいが、彼女なりに感じるものがあるのだろう。私にはわかりそうでわからない。真由が少しうらやましかった。

コンクール前日。
本番直前だからといって練習をしすぎると、特に管楽器の人なんかは次の日に支障がでるからということでその日の練習は午前で終わった。
私たちは1年生。コンクールがどういうものなのかも知らなければ、どうすれば金賞を取れるのかも知らない。それでも、どうしようもなく金賞が欲しかった。このメンバーで、田沼先輩と出られる最初で最後のコンクールで、金賞を。

8月3日ついにコンクール本番がやってきた。
朝、トラックに楽器を詰め込んでコンクール会場に運ぶため、私たちは学校に集まった。この時間はまだ緊張なんて存在せず、なんだか吹奏楽部全体で遠足に行くみたい、なんて思っていた。
楽器の詰み込みが終わると私たちは急いでお昼をとって駅に向かう。コンクール会場は電車を乗り継いでおおよそ 1 時間くらい。
大人数のために何両かに分かれて電車に乗る。いよいよ遠足みたいだと皆のテンションが上がっていく中、電車の連結部の窓から、隣の車両で一人窓に向かって運指練習をしている人が見えた。
田沼先輩だ。
浮かれ気分だった私は急に冷静になる。
今日はコンクール本番だ。

会場に到着するとあっという間に私たちの出番が回ってきた。
私たちはそれぞれチューニングを行い、大きな楽屋に集まった。クラリネットの B♭の音に合わせて段々とパートごとに音を重ね、全体で音程を合わせる。
この瞬間、私たちはひとつなのだ。

舞台裏

クーラーがしっかり効いていた。楽器が冷えて音程が変わらないよう、息で温めながらひとつ前の学校の演奏を聴く。この瞬間の緊張を凌駕するものは無いだろう。

舞台裏で聴く演奏というのは不思議で、どんなに下手でもどんなに上手でも総じて途轍もなく上手に聞こえる魔法がかかっている。
恐らく一度でもコンクールを経験した人であればこの感覚はわかるのでは無いだろうか。

拍手と共に前の学校が上手にはける。
最後の人がはけるのと同時に、下手から舞台に出る。

合図とともに着席すると、両腕を上げて指先までぴんと伸ばすその動きを合図に、私たちは楽器を構えた。

7分間

何を考えていたのか覚えていない。ただ、気持ちの良い風が吹いていた。
演奏が終わり上手にはける。
この7分のために何日も何百時間もかけて練習してきた。審査員はもちろんそんなことは知らない。この7分が審査員にとってはすべてなのだ。午後の部の最後から2番目だった私たちは、審査結果を聞くために大ホールに移動した。

その日の午後に演奏があった何十校もの生徒たちでホールは埋め尽くされていた。
客席に移動すると先に座っていた真由が俯いている。
「どうしたの。」
私が声をかけると彼女はなんでもないよ、という顔をした。

床が動き舞台の下から、スタンドマイクが出てくる。しばらく会場全体がザワザワしていると、下手からスーツを着た小柄な男性が出てきた。
彼はマイクに近付いて咳払いをする。
「皆さん、お疲れ様でした。どの学校も本当に素晴らしい演奏をありがとう。いよいよ、結果発表です。金賞の場合は銀賞との聞き間違いを避けるため、『ゴールド金賞』と発表させていただきたいと思います。さあ、それでは、発表に移ります。プログラムナンバー14番、練馬区立…」

次々に発表されていく。それまでの長い長い練習の結果が、本当にあっけないくらい短い言葉となって。「ゴールド金賞」の言葉をもらった学校からは甲高い喜びの悲鳴が聞こえ、銅賞や銀賞の言葉をもらった学校には涙を流している様子が見受けられる。
「プログラムナンバー26番、江戸川区立柳碧中学校…………。」

「………。」

私たちの夏は終わった。
帰り際、先生の腕にはブロンズの丸いメダルがついた盾が大事そうに抱えられていた。

1番涙を流していたのは田沼先輩だった。私は今朝までの自分の態度に酷く苛立ちと後悔を覚えた。

学校に帰るまでの間、何も考えられずにふらふらとただ歩いた。
蝉が鳴いている。朝はどうだっただろうか。もうよく覚えていない。
楽器の片付けが落ち着くと、先生が労いの言葉と感謝を述べた。皆放心状態で、とてもきちんと聞いているとは思えなかったが。

解散後何もする気が湧かず、真由に先に帰ってもらったところで音楽室に残っていると、突然田沼先輩が入ってきた。
「名雪ちゃん、お疲れ様。2 人で話すのは初めてだよね。」少し前まで泣いていたのだろう。目元がわずかに赤かった。
「きっとさ、来年は銀賞とれるよ。だから、3年生になったら金賞とってね。」

どうして私に。今まで個人的に交流はなかったのに。真由じゃないのか。

「名雪ちゃん、吹奏楽でいい賞を取るのに大切なことってなんだと思う。」
「一生懸命練習すること…。」
ありきたりな答えしかできない自分が少し恥ずかしかった。
「そうだね。一生懸命練習すること。他には?」
「気持ちを込めたり、みんなで息を揃えたり…。」
「まあ、私も答えはわかんないんだけどね。」
変な先輩だ。答えがないのはわかっていたが、少しモヤっとする。
「答えはわからないけど、最近思ったことがあってね。音楽に対する純粋な熱意って凄く大切だと思うんだ。」
 
 
純粋な熱意
 
「真由ちゃんと仲良いよね。あの子、凄く演奏は上手いんだけどね。お家のせいもあってか、音楽を頑張らなきゃっていう気持ちが自分を追い詰めちゃってるみたいで。昨日、コンクールが終わったら部活を辞めたいって相談に来たんだ。」

知らなかった。そんな思いを抱えていたなんて。
今日俯いていたのは、そのせい?

「名雪ちゃん。きっと君みたいな子は何にも邪魔されないで、真っ直ぐ音楽に打ち込めるんじゃ無いか
な。的外れだったらごめんね。でも、もしよければ名雪ちゃんにお願いしてもいいかな。」

「わかりました。」

 
2年生「銀賞」

3年生『ゴールド金賞』

ある夏の夜、私は先輩から思いを受け取った。あついあつい、吹奏楽への。
 
霜月
初めまして。文学部哲学科の霜月と申します。古文と和歌と音楽が好きで、夢は平安貴族の情緒を得ることです。あまり文章は得意ではないのですが、せっかくなので書きました。少しでも心が動いたのなら嬉しいです。ではまた来年、お会いしましょう。 

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