【2023年度哲学思想研究会部誌収録文章】(無題)

 犬のやっているところの学問を、我々にもやらせてくれとは言わないから、我々のやっているところのこの学問も、他の何にやらせてみたならば面白いか。などということは言わないでおこう。ではないか。
 言ってはならぬとは言わないが言ってみても構わない。とのばかりのナントカ理性を、文学部ということの当て付けに意地っ張りとして発揮させることも、本当はもう飽きているのではないだろうか。本当ならば。
 何が純粋であっても純朴な人間用語としてのそれならば、目に見えて格好悪く、目に見えない風であるところの幅を持たぬ図形に、幅を持ったインクで与えられた辟易する電磁波とツブツブ化学式のトライポフォビアとに、人間的電気ビリビリ文字概念である。耐えて。
 だからといって、格好付けて目を瞑って、目を瞑り過ぎて、好かない様な汎ゆる緑色の発光を誤って見てしまうのであれば、あなた方はやめておくべきである。私も。

 クッキーの裏面を舌に乗せ、表面に振り掛かったザラメは、咀嚼に際し忘れた頃に思い出される。忘れた頃に思い出されることを期待され、覚えていないのに記憶されている。見覚えの無い脳の血管の詰まりが、私の同一性であるならば、無くした消しゴムもまた私の記憶として充分である。というだけ。
 嚥下などという非常識極まりない運動を、耐えられないのであればそれでいい。というだけ。

 「現実味は用法と容量を守って、云々。」
 これの使いどころを間違えたか。或いは容器を間違えたか。ところで今のこれは何味。
 ところで、親に貰った体も今は無く、ただ日々の嚥下の苦労が憎たらしくこべり付いている。
 気付けば現実が現実である。という必要が無くなっている。現実は現実的であり続けねばならぬ。という命題の出処に疑問を持つ。嫌な顔をしていることに気付く。現実味を勿体振った現実の退屈さが無用の長物となる。即ち秋のことである。冬でもいい。
 寒ければ、息を吸い込めば死んでしまうので、息を吸わないでおく。息は吸うが、空気は吸わない。息は吐くが、空気は吐かない。どうせ温まるのはこの身の仕事で、「ではない」方の季節には関係の無い話である。
 布団に保存したエネルギーを以て夢を見るのと同じ仕方で、脇を閉じ、寒がって、歩くだけ、多分、外気を受け入れた訳ではないというのならば、当たり前に見ているだけ。見えているだけ。
 そういう訳で、コンクリートにのさばっているというだけで我々に見られているだけのこの寒空的な何かは、我々が見て、やっているのだという。辛うじて見てやって、それだから何となく、何とまあ、ロマンチックな気のするこれは、多分現実ではない。ただひたすらに現実的で、退屈である。

 カクカク・シカジカは、所詮は楽観的死の言ったことであるから、気にする必要は無い。
 また、いいや、ところで、いいや、また、全ての動物種は彼のパースペクティブ、それに類似品の存在しない視野の範囲において最も繁栄している種であると言える。そして、主観的にその様に認識しているという説。そしてまた、この様な説は特には必用が無い。
 明瞭な意識というものの駆動時間は、私というものにおいては、期待されていたよりも小さい割合をしか占めない。基本的には微睡みという私である為。
 面倒とはそれが何に対しての面倒であるのか。「私」は証明されるまで使用不可能であるか。
 外星人もまた他「人」であるならば、広義の人間性を持たぬ宇宙「?」が要請される。
 嘘も本当も言い得ないとは全く本当である以上、虚構を虚構とすることが虚構にとっての虚構であり、虚構であるとされることが虚構である真実は虚構である。
 昔々或るところの任意の主題を選んだのは、荒唐無稽には違いないが、これは理由を持たぬままに理由付けられていなければならない。これは前部分の正当な帰結であり、直観によってしか語られなかった事実であれば、今それを説明するというのは不当である。実際、それが音便的にであるか概念的にであるかは分からない。ただその時に、そのワケの分からぬ語が帰結したことのワケは分かっていたというだけである。それ以外にはあり得なかった。即ち前の語はそれを既に含んでいた。
(以上、糸巻きタバコについての弁明)

 いち主観としての立場を仮想的に付与された純粋に客観的なテーマとしての建造物が請求するところの純粋な客観としての人間があり得るために、アールデコは人間と一切共感しないのでなくてはならない。
 一つ、客観的に評価するための人間が少なくとも主観的には主観的であってはならず、自らを自らいち家具として数えるのであってもいけない。アールデコの内装は額縁によって完全に隔絶された対象であり、人間に交じり入らない。
 モノクロに塗られたアールデコの空間。塗るのは部外者または不調和としてのフィギュア、人間であり、アールデコの実際の発色を知らぬところの一人称である。これは暴力的な肌色をして、漂白された凹凸を嗅ぎ分ける。
 彫刻的な評判において文章を書けばそれは能動的であるか。不必要な意味における主観において主観的に、彫刻の美的名辞は彫刻が有すのであって、我々に働き掛けて初めて生じるのではないが故に受動的ではない。しかし必要な意味における一般において一般的に、人間を感動せしめるよう仕向けられた文章との対比によれば、確かに能動的とは言い難い。
 それならば、それならばによって接続されるべき汎ゆるそれを不動の動者と呼べるならば、不動の動者であってもよくて、それ故に不動の動者あっていい。直後のそれは直近のそれではなく、その故、そではない。
 しかしといってひらがなのそが神であるために、汎ゆる客観的な対立関係を入れるところの括弧を要請する者を滅ぼさなくてはならない。人間は人間とは別の仕方で賢いところの者以外と話すことを拒み、そのために有意義な対話篇を書き上げる。自然の辻褄合わせとにおいて心中する。それと、とという文字によって自殺する。これが嫌であればこそ、嫌と言い得るからこそ、汎ゆる自然のための辻褄合わせではなく、それのためのそれとしての文章が可能となる。これが可能であったところのいち文章におけるいち可能性として可能となる。
 視点を伴う認識が卑下された事態は存在しない。神は全てを見通すからといって、任意の点における点は可能であり、これは結局において我々が自分の指先に集中するのに似る。神の指の先の極小の部分において任意の有機的な眼差しが、またもや神の認識として存在していることも可能である。広義の近眼についての価値の保証はこれによって終了する。
 或る母語ではない言語の初学者が、純粋に彼の興味において語を取捨選択し作文を行うならば、それが素朴派である。素朴派において、言語が彼において擁する有機的性に属する意味での有機的な制限は排除され、専ら有機物が彼において有し、彼が自体として嫌悪し得ない有機的趣味の選択だけがそれとしてではなく蓄積される。透明として仮定された辞の経験的使用は再設定され、ここにおいて語の好悪だけが第一段階として残存している。
(ここにおいてそれは、面倒という文字となって終了)

鍵括弧の例の形状が肌に合わなかった者について、またその為に生じた一個の死について


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