見出し画像

ジョグジャカルタ思い出し日記⑤|西田有里

ジョグジャカルタの夜は、あちらこちらの街灯の下、屋台が営業を始めます。
お店で働く人たちは、顔見知りではあるけれど、どんな人かは知らない、そんな関係。
何気ない日常を生きることが、その国の歴史に存在することだと、ふとしたきっかけで気付かされる、連載第5回目。

ジョグジャカルタの名物料理グデッ

 ジョグジャカルタの名物料理といえばグデッである。ジャックフルーツを甘辛く炊いたものと、ココナツミルクで煮込んだ鶏肉や卵や豆腐、牛の皮を唐辛子と一緒に煮てスポンジみたいな食感になっているものなどのおかずを、ご飯にぐちゃっとのせて食べる。甘みが強くてあまり好みでないという人がインドネシア人の中にも多いけれど、私はこれが結構好きでジョグジャでまた食べたいものというと真っ先に思い出される。
 グデッはGudegで、日本人には発音するのがなかなか難しい。グドゥッと書く人もいるが、そもそもカタカナで表記するのは無理がある。GとDの濁音が重くて、喉にぐっと力を入れて発音しなければならない。「グデッ食べよう」と発語する時、お腹と喉に力が入って、自然と美味しいものを食べようという気合が入るような気がしなくもない。
 グデッには汁気の無いタイプと汁気の多いタイプの2種類あって、汁気の無いタイプは昼間に営業しているお店、汁気の多いタイプは夜間に営業してるお店で食べられる。今はどうなっているか知らないけれど、汁気の多いタイプのグデッのお店は夜もかなり深まった時間に開店するところが多い。汁気の多いタイプは早朝に食べられることも多くて、この場合は白飯がお粥になる。
 私が好きだったのは、深夜に食べる汁気の多いタイプのグデッ。夜を徹して上演される影絵芝居ワヤンのみならず、ガムランの演奏会や稽古など伝統芸能の活動は深夜に及ぶものが圧倒的に多かったこともあって、食べる機会も多かったのかもしれない。町には深夜まで営業している店や屋台もとても多かった。
 
 ルジャールじいさんとナナンの行きつけのグデッ屋は、ジョグジャカルタの目抜き通りマリオボロ通りにあるジョヨさんの店だった。マタラム通りの家からも歩いて5分くらい。店と言っても店舗を構えている訳ではなくて、夜は閉まっているブリンハルジョ市場の前あたりにゴザを敷いて簡易の台を置き、コンロと鍋を並べただけの店である。マリオボロ通りも今はすっかり明るくきれいになって、このような道端の店は一掃されてしまったが、当時は昼は衣料品やお土産物を売る露天商がひしめき合い、夜はこのような簡単なゴザを敷いただけの飲食店がいくつもでて明け方まで営業していた。
 ジョヨさんの店の営業は夜11時頃から明け方まで。街灯の弱々しい明かりを頼りにして薄暗い中営業している店にもかかわらず、なかなか繁盛していていつ行っても客足が途切れることはなかった。店主のジョヨさんは60代くらいの女性で、ルジャールじいさんとは、ジョヨさんのお母さんが店を切り盛りしていた時代からの古い付き合い。なんでも若い頃はクトプラッという日本でいうと大衆演劇のような芸能のグループで女優をしていたらしい。女優だからなのかどうなのかいつもばっちりフルメイクで、大きな鍋8個くらいに囲まれて小さな椅子にちょこんと座っていた。道端にゴザを敷いただけの暗くてお世辞にもきれいだとは言えない場所で、おしろいで真っ白になった彼女の顔だけが妙に目立っていた。
 ここでのオーダーは、鍋に囲まれて座っているジョヨさんに鶏肉とか卵とか豆腐などの中から食べたい具を選んで直接伝える。どのおかずも他の店より甘さ控えめでダシが効いてて美味しい。お鍋でぐつぐつしている卵や豆腐をよそってもらう感じは、おでんに近いような気もする。鶏肉は色々な部位があって、胸肉、もも肉、手羽先、手羽元、頭や鶏足まであり、鶏肉を細かくほぐしてもらうことも可能。ホルモンをバナナの皮に包んで蒸したのも美味しい。クレチェッという牛皮を煮込んだ唐辛子たっぷりのソースは好みを伝えれば量を調節してもらえる。「卵と、豆腐と、ほぐした胸肉と、唐辛子ソースはちょっとだけ」みたいに言うと、ご飯を盛ったお皿にあつあつのおかずを一緒にのせてくれる。お支払いは帰るとき、食べた物を自己申告して計算してもらうシステム。たくさん食べても100円~200円くらいだった。
 お皿を受け取ったらゴザの空いているところ座る。そうすると、目つきが異様に鋭いおじさんが近づいてきて、飲み物の注文をとってくれる。ジャワティーや、水に柑橘の汁を絞ったものが定番。砂糖の量や温度も細かくオーダーできる。飲み物担当のこのおじさんは、飲み物を作る合間に、お客さんが路上に止めるバイクや車の整理も行う。深夜の路上で仕事をする女優の用心棒的な役割もあったかのかもしれない。人相が悪く、無口で表情もほとんど変わらないけれど、見た目に似合わず仕事は手際よく飲み物も丁寧に作ってくれた。このおじさんともルジャールさんは昔からの顔なじみで、いつも親しげに声をかけていた。
 ある時、ワヤンを観た帰りか何かにここでグデッを食べていた時、私はふと冗談のつもりで、飲み物作ってくれるおじさんて顔がめっちゃ怖くて殺し屋みたいだよね、とナナンに言った。そうすると、急にナナンは真顔になって、本当に彼は人を殺しているよ、と小さい声で早口に言った。深夜のマリオボロ通りの闇が急に深まったような気がした。ナナンは一言、政治の話だから、と言ったきり黙ってしまった。その後はいつもと同じように会計して帰ったけれど、この日の一瞬しんとした空気を今もよく覚えている。
 後から聞くと、彼はスハルト政権時代に、ゴルカル党のサポーターのようなことをしていたそうで、選挙前には対立する政党の妨害で乱闘騒ぎをよく起こしていたのだそうだ。対立政党の集会が開かれると聞くと、武装した集団で乗り込んで暴れる。その騒ぎの中で犠牲になった人も少なくなかった。今考えると、ありえない恐ろしい話。しかしその当時はゴルカルの力は絶大で、彼が関係している事件もうやむやになった。今もきっと彼のような人が何人もジョグジャカルタの町の片隅に暮らしているのだろう。グデッ食べたいなあと思う時、マリオボロ通りの深夜の暗い店に浮かび上がるジョヨさんの白い顔とともに、飲み物担当のおじさんの鋭い目つきを一緒に思い出して、ちょっとちくっとする。

グデッ屋台 簡易テーブルに鍋をいくつも並べて商売する。

「ジョグジャカルタ思い出し日記」は月1回連載です。次回の更新は8/19(土)を予定しています。


著者プロフィール

 西田有里 Yuri Nishida
ジャワガムランの演奏家。2007 年〜2010 年インドネシア政府奨学生としてインドネシア国立芸術大学ジョルジャカルタ校伝統音楽学科に留学し、ガムラン演奏と歌を学ぶ。2010年からガムラン演奏家として関西を中心に複数のグループで活動。ガムランとピアノと歌のユニット「ナリモ」にて、CDアルバム「うぶ毛」を発表。現在はインドネシア人の夫と共に結成したマギカマメジカにて、インドネシアの影絵人形芝居ワヤンを基にした活動を展開している。
https://magica-mamejika.tumblr.com

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?