第一話 その雨は嵐を呼ぶ
夜更けに降り始めた雨は、明け方になってもまだ降り続いていた。
その雨は土を掘り返すように、何度も何度も空から打ち付けてくる。
白木蓮の木の根元、そこにある真実を暴こうとでもするかのように。
あれから、どのくらいの月日が経っただろうか。
長い時間が経ったという感覚があるのに、同時にまるで昨日のことのように鮮やかに思い出すことができる。
「あのね、この種を埋めるときれいなお花が咲くの」
幼い女の子の手には、金色の種が握られていた。
何色の花が咲くんだろうね、と彼女と一緒に手を土まみれにした。
あの時、白い木蓮はそれは美しい大きな花を咲かせていた。
まだ春には至らない季節、ほのかに甘い香りがしたのを覚えている。
「深く掘らないといけないんだよ」
花の種は、そんなに深く穴を掘るものだっただろうか。
不思議に思ったけれど、あまりに彼女が一生懸命に穴を掘るものだから、そういうものかなと同じように深く、深く土を掘った。
ちょっとした宝物を埋めるように、あの子は深く掘った穴に金色の種をそっと置いて嬉しそうに笑った。
固い土では種が可哀想だと、二人で掘り起こした土を更に細かく柔らかくしてから種の上へとそっと被せた。
次の日すぐに種の様子を見に行ったが、こんもりと盛ったはずの柔らかな土は何者かによって固く踏みしめられてしまっていた。
そして、花が咲くのを楽しみにしていたあの子は、種を植えた後は一度も花の様子を見には来なかった。
いや、来られなかった。
忘れようとしても忘れられない記憶。
消そうとしても消せない罪。
おそらく、この痛みは罰せられるその時まで続くのだろう。
雨は徐々に雨脚を弱め、ぽつりぽつりと頬を打つ程度になっていた。
足元まで雨に濡らされながら、ただ黙って木の根元を見つめ続ける。
そこから何かが芽吹くはずはないと知っていながら、もしかしたら綺麗な花を咲かせる芽が出ないかと期待してしまう。
もし花が咲いたら──……許されるだろうか。
***
「面白かった~。あの役者さん、本当にかっこいいね」
大きく伸びをしながら言うと、少し先を歩いていた怜二が振り返った。
昼過ぎまで降っていた雨は今は上がり、心地の良い風が吹いている。
「あの役者って、今みた主役の?」
「うん。前から素敵だなとは思ってたけど、今日の役は特に素敵だったなって」
「……へぇ」
怜二は形の良い眉を器用に片方だけ上げてから、私の行く手を阻むように前に立つ。
「……なに?」
「俺が横を歩いてるのに、他の男にうつつを抜かされるのはちょっとな」
艶っぽい目に見つめられ、一瞬言葉に詰まった。
いくら小さい頃から見慣れた幼馴染みの顔とはいえ、怜二の綺麗な顔でじっと見つめられると居心地が悪い。
ただからかわれているのだとわかってはいても、頬が熱くなりそうで片手で押さえた。
「どうした?」
私の反応に満足したように、怜二はにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
「怜二の舞台だってちゃんと観に行ってるのに」
「当たり前だろ、俺が呼んでるんだから」
「呼ばれなくても観に行くよ?」
「……けどお前、舞台観た後に今みたいにうっとりした顔で、素敵だった~とか言ったことないだろ」
「だってそれは……」
言いかけた言葉を途中で呑み込んだ。
怜二が舞台に立つ時は女形を演じることが多く、素敵は素敵でも綺麗だったといった褒め言葉になる。
その違いをどう言えばいいのかと悩んでいたのだけれど、怜二は不満そうに眉根を寄せた。
「じゃあ、今度からちゃんと感想を伝えるようにするね」
「せっついて褒められても嬉しくねぇよ」
「素直じゃないなぁ」
「お前な……って、あれ、お前の知り合い?」
「え?」
あれ、と言われて怜二の視線を追うと、曲がり角の所に黒いスーツに身を包んだ男性の姿があった。
彫りの深い顔立ちに、灰色の瞳から外国の人だとわかる。
「ううん。誰か他の人を見てるんじゃない?」
「……ま、そうか」
視線をそっと外し、怜二が先立って歩き出す。
それにならって横に並ぶと、すぐに腕を引かれた。
「走るぞ」
「え?」
「いいから、次の角曲がったら走れ」
どうしてかはわからなかったけれど、ごく小声で囁かれただ事ではないことだけはわかった。
頷き返すと怜二は私の腕から手を離し、変わりに手をしっかりと掴んだ。
こんな風に手を繋ぐのは小さい頃以来のことで、どきりとする。
でも、そんなことを気にするよりも早く曲がり角が近くなってきた。
いいか、と合図をするように繋がれた手に力を込められる。
それを握り返すのと同時に、私たちは走り出した。
その途端──。
「……なんだ、お前ら」
脇道から、男性が飛び出し私たちの前に立ちはだかった。
さっき見た男性とは違う人だったけれど、同じように黒いスーツを着た外国の人だ。
足音が複数聞こえて後ろを振り返ると、背後からも二人ほどやって来ていた。
「お嬢さん、我々と来てもらおう」
男性のひとりが流暢な日本語で言う。
「……人違いじゃないのか」
どこか緊張をはらんだ怜二の声にその顔を見上げると、怜二は今まで見たこともないほど鋭い目で男性を睨み付けていた。
男性は背後にいる人に視線をやり、何かを確認するように頷いてからまた口を開いた。
「そのお嬢さんが九条千佳だという確認は取れている。大人しくついて来てもらおう」
「九条? やっぱり人違いじゃねえか」
「言い逃れは通用しない」
「違うって、こいつは……」
言い終えるよりも早く、男性の拳が怜二目掛けて繰り出された。
「なっ!?」
怜二は咄嗟に体を傾けて避けたものの、危うく真正面から殴られるところだった。
「大人しくついて来るならば何もしない。だが、抵抗するならば多少手荒なこともさせてもらう」
わかったか、と聞くように正面の男性が拳を構える。
はっと後ろを振り返ると、背後にいた男性たちは徐々に距離を縮めようとしていた。
「……千佳、逃げろ」
低く言われた言葉に目を見開く。
できないと言うよりも早く、怜二は正面の男性へと掴みかかった。
「早く!」
「でも怜二……!」
正面にいた男性が怜二に抑え込まれたと見るや、背後にいた人たちが走り出した。
「いいからさっさと逃げろ!!」
怜二の鋭い声に押されるように、私は地面を蹴っていた。
あの人たちは私を連れて行こうとしていた。
だから、きっと怜二は大丈夫だ。
何度も自分にそう言い聞かせながら、誰かに助けを求めようとひたすら走るしかことしか、私にはできなかった。
***
誰に助けを求めたらいいのかわからなかった。
追われて逃げるうちに家からはどんどん遠ざかり、自然と知り合いに会う機会も減っていく。
見ず知らずの人に声をかけようにも、生憎と通りにはまばらにしか人がいなかった。
少しでも足を止めれば捕まってしまいそうで、肺が痛んでも私は走り続けていた。
外国の人から追いかけられるような覚えはない。
それに、彼らは私と誰かを間違えているようでもあった。
確かに私の名前は「千佳」であっているけれど、苗字が違う。
どうにかその誤解を解ければと考えているうちに、門扉が大きく開かれた教会が見えて来た。
庭には色とりどりの花が咲き誇り、手入れの良さを感じさせる。
ここならば、匿ってもらえるかもしれない。
そう考え、辺りを見回してから私は教会へと逃げ込んだ。
教会の中は静かだった。
正面の大きなステンドグラスから色とりどりの美しい光が、誰もいない室内へと差し込んでいる。
外観からするととても古い教会に見えたけれど、中は綺麗に掃き清められていて古いというよりあたたかみのようなものを感じた。
私の荒い呼吸の音だけが、やけに大きく響く。
しばらく呼吸を整えていると、奥に見えるドアがカチャリと音を立てた。
はっと身構えると、ドアを開けた人も私を見つけて驚いたように目を丸くしていた。
「あなたは……」
「断りもなく入ってすみません! 決して怪しい者では……」
慌てて頭を下げると、言葉の先を遮るようにその人はゆっくりと首を横に振る。
「構いません。ここはすべての人を受け入れるための場所です」
柔らかな笑みを浮かべた人は、長い金色の髪に緑がかった美しい瞳をした男性だった。
着ている衣装からして、教会の神父なのだろう。
「……よろしければお話を聞きましょう」
どうぞと椅子を勧められて、首を横に振る。
座って話しているような余裕はない。
「実は私追われていて、友人が大変なんです!」
「追われて……?」
この人ならば助けを求められるのではないかと勢い込んで言うと、硝子細工のような瞳がわずかに揺れた。
いくら神父様とはいえ、急に助けを求められても困るのだろうと申し訳ない気持ちになったけれど、他に頼れる人もいない。
藁にも縋る思いで言い募ろうとした時、教会の表に車の停まる音が聞こえた。
「っ……」
「……あなたはその棚の陰に隠れていてください」
「神父様……」
「大丈夫です。ここは神のご加護のある場所ですから、何人も悪いことはできません。さあ、早く」
小さく頷き、棚の陰へと体を滑り込ませる。
私がしゃがんだのを確認すると、神父様はゆっくりとドアの方へと歩いて行った。
私のいる場所からはその姿は見えないけれど、声は聞こえていた。
「どなたが見えたかと思ったら、貴方でしたか」
落ち着いた神父様の口ぶりから、知り合いなのだとわかりほっと肩から力を抜く。
誰も彼もが自分を追っているような気になっていたけれど、よく考えればそんなことあるはずもない。
けれど、次に聞こえて来た言葉に私は再び体を小さくした。
「ユーリ神父、この辺りで二十歳前後の女性を見かけませんでしたか?」
まさか、追っ手と神父様が知り合いだなんて。
表からは逃げられない。
とすると、神父様が入って来た奥の扉から逃げる他ないと腰を浮かし掛けた時、頭上に影が落ちた。
「逃げなくても大丈夫ですよ。どうぞこちらに出て来てください」
優しげに見えた神父様の顔が、何か恐ろしいもののように見える。
けれど、こんな近くで手を差し伸べられては逃げようもなかった。
覚悟を決め、神父様の手は取らずにすっくと立ち上がる。
てっきり、黒いスーツの男性たちが押し寄せているのを想像していたけれど、教会の中にいたのは黒ではなく紺の仕立ての良いスーツを着た男性だった。
私より幾分年上らしい男性は、上品な顔立ちをしておりまとっている空気は優しかった。
だからというわけではないけれど、私は大人しく男性の前まで出た。
「……大きくなったね」
ふわりと笑んだ男性の様子に、何故か懐かしさのようなものを感じる。
どこかで会ったことがあっただろうかと首を傾げると、神父様が間を取り持ってくれた。
「こちらは九条伯爵家のご長男。九条上総さんです。街の南に大きなお屋敷があるのはご存知ですか?」
「……はい」
「そちらが九条伯爵家のお屋敷です」
伯爵家の人といえば、庶民の私などがこうして一体一で向き合う機会など生涯ないはずの人だ。
でも、そんな驚きよりも私は『九条』という名前に驚いていた。
私を追っていた人たちは、私を九条千佳ではないのかと聞いた。
聞き間違えではないはずだ。
その苗字を持つ人がどうして、という困惑が顔に出ていたのかもしれない。
上総さんは困ったように笑って、私との距離を少し詰めた。
「爵位を継いだわけじゃないから、僕は伯爵ではないよ。だから、そんなにかしこまらないでほしい」
「そういうわけには……」
「本当に、そんな必要はないんだ」
見上げた上総さんの目に涙のようなものが見えた気がして驚いた瞬間、きつく抱きしめられた。
「ずっと、探していたんだ。本当に……無事でよかった」
──ずっと探していた。
その声はあまりに切なげで、腕を振り解くことなどできなかった。
抱きしめられたまま助けを求めて神父様を見ると、神父様はじっと足元に視線を落としていた。
もしかしたら、何か事情を知っているのかもしれない。
「……何もわからないだろうに、ごめんね。ひとまず屋敷に行こうか」
「あの、屋敷って……」
「九条の家だよ。詳しい事情はついてから説明するから。今は急ごう」
「私、行けません」
「混乱しているとは思うけど……」
「違います! 私、見知らぬ人に追われていて、幼馴染みがまだ困っているはずなんです」
一息に言うと、上総さんが合点がいったというように頷いた。
「音羽怜二君のことだね」
「えっ」
「彼なら大丈夫。先ほど保護したという報告が入ったよ」
「……よかった」
「心配事がなくなったなら、行こう。お前が追われていることにまだ変わりはないからね」
「でも、あんな外国の人から追われるような覚えは……」
「連中が何者なのかはまだ調べがついていないけど、自分が狙われていることだけはわかったはずだよ。事情の説明のために安全な場所に行くだけだから、承諾してもらえないかい?」
「……わかりました」
頷くと、上総さんはほっとしたように口元に笑みを浮かべた。
***
高級そうな車で連れて行かれた先は、瀟洒な洋館だった。
遠くから眺めたことくらいはあるが、敷地内に足を踏み入れたのはもちろん初めてのことで、どう歩いていいのか緊張するくらい立派なお屋敷だった。
車が停まるとすぐに、屋敷から人が出てくるのが見えた。
「おかえりなさいませ、上総様」
あまり見かけない形のスーツに白い手袋をはめた男性は、上総さんの手から鞄を受け取ると丁寧に頭を下げる。
眼鏡の奥の切れ長の瞳が、私を一瞥してからすぐに逸れていった。
「ただいま、忍。彼女を応接室へ案内してもらえるかい? 僕は父に声をかけてくるから」
「かしこまりました」
「千佳、紹介するよ。うちで執事長を務める綾崎忍だ。若いけど誰よりも頼りになるから、困ったことがあったら彼に言うといい」
上総さんに紹介されると、綾崎という名の男性は上総さんにしたのと同じように私にも深々と頭を下げてくれた。
「屋敷内でお困りのことがございましたら、何なりとお申し付けください、お嬢様」
「は、はい! ありがとう、ございます」
『お嬢様』などと呼ばれたことは今まで一度もない。
あまりにすんなりと呼ばれて、変に声が裏返った。
けれど、綾崎さんは私の動揺を気にかける様子もなく、薄い微笑を口元に浮かべていた。
まるで見本のような笑顔に私の方が顔を引きつらせる。
「それじゃあ、また後で」
「あ、はい……」
「忍、任せたよ」
「かしこまりました」
上総さんは足早に屋敷に入って行き、その場に私と綾崎さんだけが残される。
どうしようと戸惑っていると、綾崎さんが先だって歩き出した。
少し歩いてから振り返られ、私も慌ててその後を追う。
九条伯爵家は外観のみならず、屋敷内も目を瞠るような美しい造りをしていた。
意匠を凝らした家具に、品の良い絨毯とどこを見ても溜息が漏れるほどだ。
「そちらのソファにおかけになってお待ちください」
室内の様子に見惚れていると、手の平で長椅子を指し示される。
その長椅子も座るのを躊躇うような高級なもので、私はおそるおそる浅く腰を下ろした。
「お茶をいれて参りますので、おくつろぎになってお待ちください」
「あの……おかまいなく……」
綾崎さんがいなくなってしまうと、余計に落ち着かなかった。
場違いな場所に来てしまった感が否めない。
そわそわと視線を彷徨わせていると、ノックも何もなしにガチャリとドアが開いた。
室内に入ってきたのは、学生服を着た青年だった。
射貫くような真っ直ぐな視線が印象的で、つい見入ってしまう。
「……何」
「あ、すみません!」
慌てて頭を下げると、青年は溜息をついてドアのすぐ近くの壁に寄りかかった。
彼が座らないのに私だけ座っていていいのだろうか。
ふと不安になって腰を浮かしかけた時、ノックの音の後にドアが開く。
今度室内に入ってきたのは、ワゴンを押す綾崎さんだった。
綾崎さんはすぐに青年に気づくと、丁寧に頭を下げる。
「……克己様、お席の方へどうぞ」
「ここでいい」
「立ったままお茶を楽しまれるおつもりですか?」
「すぐ済む話なんだから、茶はいらない」
「……克己様」
綾崎さんがほんの少し声を低くすると、克己と呼ばれた青年は嫌そうに眉根を寄せてから渋々壁から背を離した。
そして、私からはきっちりひとり分の距離を置いて、長椅子へと腰を下ろす。
「お嬢様、本日はアッサムをご用意いたしましたが、ミルクをお入れしてもよろしいでしょうか」
「……お願いします」
アッサムと言われても何のことかよくわからない。
曖昧に頷くと、綾崎さんは口元の笑みをわずかに深めてポットを傾けた。
「克己様はいかがいたしますか」
「まかせる」
「では、アールグレイのストレートをお出しいたします」
「……忍、嫌がらせはやめろ」
「何のことでございましょう」
気安い二人のやりとりを何気なく見つめていると、またノックが聞こえた。
「待たせたね」
室内を見て少し笑みを浮かべてから、上総さんが室内へと足を踏み入れる。
その後ろから、髪に白いものが混じり始めた中年の男性が入って来た。
見るからに貫禄があり、目が鋭いせいか怖い雰囲気がある。
その空気に自然と立ち上がると、男性はじっと私の顔を見てほんの一瞬だけ優しげに目元を細めた。
「佐保に……似ているな」
まるでひとりごとのように呟いてから、男性は私の前の椅子に腰を下ろす。
上総さんはその横に腰を下ろした。
「座りなさい」
そう促され、会釈をしてから私も座り直す。
全員分のお茶が用意されるのを待ってから、上総さんが口を開いた。
「紹介するね。この人は九条宗一郎といって九条家の現当主であり、僕の父親。そして今横にに座っているのが弟の克己。千佳のひとつ下だったかな、克己?」
「……さあ」
上総さんの問い掛けへの冷たい声に、思わず隣を見てしまう。
けれど、克己くんは壁の方に視線をやったままだった。
あまり兄弟仲はよくないのかもしれない。
「無愛想な子でごめんね。ほとんど照れ隠しなだけだから気にしなくていいよ」
「別に照れてない」
「はいはい。こんな感じだけど、素直なところもあるからきっと仲良くなれると思う」
話の先が見えなくて首を傾げると、上総さんは少しだけ困ったように笑った。
「順を追って話そうか」
一度、お茶で喉を湿らせてから、上総さんは幾分話しづらそうに始めた。
「……僕には五歳年の離れた妹がいる。けれど、彼女は三歳の時に何者かによって誘拐され、それ以後行方が知れていなかった」
「…………」
突然始まった深刻な話に、鼓動が早くなっていく。
三歳、という言葉が妙に胸に残った。
「もちろん、四方手を尽くして探したけれど、妹は見つからなかった。けれど、今になっていなくなった妹の情報が入ってきたんだ。それが、千佳。お前だよ」
何を言われているのかわからなかった。
「何かの、間違いです……。だって、私にはちゃんと母が……!」
けれど、私には父がいない。
私が生まれる前に死んだのだと聞かされて育ち、今の今まで何の疑いも持つことがなかった。それなのに。
私の胸の中にわいた疑問を感じ取ったように、上総さんは一度目を伏せてから一枚の写真を撮りだした。
見るように、とテーブルの上に置かれた写真を手に取る。
そこに映っていたのは、私だった。
「いつこんな……」
「よく見てほしい。その女性は九条佐保。僕たちの……千佳の本当の母親だよ」
「本当の……母親……?」
心臓が壊れてしまいそうなほど早鐘を打っている。
震える手で写真を握り締め、もう一度よく女性の顔を見つめた。
自分でも見間違えるほど、私とよく似た顔の女の人。
けれど確かに、それは私ではなかった。
「……私の母は、ひとりだけです」
写真をテーブルの上に伏せると、今度は封筒を差し出された。
「花さんから預かった手紙だ」
「お母さんから……?」
急いで封を開けると、便箋には確かに見慣れた母の字が並んでいた。
少しだけ丸くて、でも見やすい母の字だ。
手紙には、こう書かれていた。
---------------------------------------
千佳へ
もう九条さんから聞いていると思いますが、私はあんたの実の母親ではありません。
あんたが三歳の時に、私はあんたを拾ったの。
急なことで驚いたでしょう。
まさか私も千佳が九条家の子だなんて思わなかったから、神様が私にくれた宝物だと思って我が子として育てました。
でもね、本当の家族が見つかった時は、潔く返してやろうとも思っていたのよ。
だから、あんたは九条さんの家に帰りなさい。
そして、本当の家族に思い切り甘えなさい。
今まで黙っていたことを謝る気はありません。
あんたは私の娘なんだから、嘘をついたとも思っていません。
何かつらいことがあったら、いつでも会いに来なさい。
母より
---------------------------------------
手紙の文字がじわりと滲む。
けれど泣き出したくなどなくて、唇を引き結んで涙を堪えた。
「……大丈夫?」
上総さんの優しい声に、ただ頷いた。
母が嘘をつかないことは私が一番よく知っている。
だから、母と血が繋がっていないことは確かなのだろう。
けれどだからといって、すぐにすべてを受け入れられるわけでもない。
しばらく、重い沈黙が室内を満たした。
それを破ったのは、九条さんだった。
「今後、お前はこの屋敷で暮らしなさい。九条家の娘として当然の教育も受けさせよう」
「そんな急に……」
九条さんが何かを言おうとしたのを遮るように、上総さんが口を挟む。
「ちゃんと花さんと話がしたいという千佳の気持ちはわかる。けどね、今千佳が元の家に帰ると花さんが危険な目に遭うかもしれない」
「え……?」
「追われていたのを、覚えているだろう?」
脳裏に、怜二の顔と黒いスーツの男性たちの顔が浮かんだ。
「けど、元の家ではなくこの屋敷に千佳がいるとわかれば、花さんも音羽くんも安全だ。……わかるよね?」
「……はい」
膝の上に置いていた手が震えそうで、きつく握り締める。
「……脅すようなことを言ってごめん。けど、どうかわかってほしい。この屋敷にいてもらうのは、千佳のためなんだ。それに……ここは元々千佳の家なんだから」
顔を上げると、上総さんはにこりと笑みを深くした。
その手が、優しく私の頭を撫でる。
「ずっと離ればなれだったけど、また一緒に暮らそう。大丈夫、本当の家族なんだからきっとすぐに慣れるよ」
──本当の家族。
その言葉は私のために言われたのだとわかってはいても、深く胸へと突き刺さった。
つづく
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