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「Liminal Space」とオタクの心象風景

見た目は同じなのに、気づいたら自分だけが別の世界に移動している…そんな妄想をしたことが人生で一度はあるかと思います。そんな感覚を的確に思い起させてくれるのが、「Liminal space」です。

「Liminal space」とは

「Liminal space」というのは、4chan発祥のインタネット・ミームで、FANDOM内「Aesthetics(美学) Wiki」によれば「他の2つの場所および状態を行き来するロケーション」とされています。(原文:「a location which is a transition between two other locations, or states of being」)

代表例として挙げられているのは「午前4時のショッピングモール」「夏の学校の廊下」で、不安を感じさせつつも、何故だか懐かしさを感じるもの。現在はそのイメージが拡張され「Liminal Space」的な範囲は広がっているようですが、根っこの部分にあるのは「(それが空間的にせよ時間的にせよ)出発点と終着点の中間であること」「(普段は人が溢れているはずなのに)人が一切写っていないこと」と言えるでしょう。

近接する概念としては「After Hours」などが挙げられています。ただ、「After Hours」は「普段は人がたくさんいる場所が、夜になって誰もいなくなったときに感じる心地よい静寂さ」に寄ったものであるが、「Liminal Space」には「不気味さ」が分かちがたい感覚として付随しています。また、「人の不在」という意味ではポストアポカリプス的な風景と類似する部分もありますが、「Liminal Space」に感じる、不気味さと懐かしさが同居する魅力はそれとも異なるでしょう。

「Liminal Space」における「人の不在」は、ポストアポカリプスのように年月が経ちいなくなったものではなく、「ある瞬間に忽然と今までいた人がいなくなってしまった」という感覚を想起させるもの。つまり、冒頭で書いたような「ふとした瞬間、見た目は同じな別世界に自分だけ迷い込んでしまった感覚」が、「Liminal Space」に感じる魅力なのではないかと思います。「Liminal Space」についての議論で、しばしば「The Backrooms」(現実であることをすると迷い込んでしまう、同じような部屋がひたすら続く空間についてのネットロア)が挙げられるのは、この「うっかり迷い込んでしまった」感という共通点があるからでしょう。

この「ふとした瞬間に迷い込んでしまった」感、正直オタクにとっては実家のような安心感があります。村上春樹の『1Q84』では高速道路の非常階段を経由して「1984年」から「1Q84年」に移動するし、宮部みゆき『ブレイブ・ストーリー』では建設途中のビルの、途切れた階段の先に幻界(ヴィジョン)への扉が現れる。また、「涼宮ハルヒシリーズ」における閉鎖空間は、学校などの身近な場所でありながら(基本的に)無人で似て非なる世界…まさしく「Liminal Space」……。

また、「時間の中間」という意味では、『ペルソナ3』に登場する「影時間」が、まさに「Liminal Space」的な表象。


毎晩深夜0時になると、その日と次の日の狭間に現れるとされる時間。ここでは「影時間」へ干渉できる存在以外はすべての活動が停止、認識することもできない。人間などの生命はすべて「象徴化」し、姿は無機質な結晶に変化してしまう。この「影時間」にはシャドウの声を聴くと迷い込んでしまうことがあるのですが、このふとしたきっかけで、現実の狭間に隠されていた別世界に行ってしまう…という、不気味でありながら、不思議な魅力をもつ世界はまさしく「Liminal Space」の魅力を体現していると思います。(2006年に)

ちなみに「ペルソナ3」で攻略する、学校があるはずの場所にあらわれる「タルタロス」というダンジョンは、無限に同じような部屋と廊下が続くダンジョンで、こちらは「The Backrooms」を連想させます。(厳密には、「The Backrooms」自体がウィザードリィに端を発する迷宮攻略系のRPGから影響をうけたネットロアだと思われるので、そもそもこちらが源流というべきでしょう)

上記のように「狭間」「中間」を踏み越えてしまうことで異世界に迷い込んでしまう…というのは、ある種古来より受け継がれてきた物語的な手法の一つでもあると思います。「どこかに向かう場所」というのは、必然的に「その先にある何か」を想像させ、色々な物語が生まれてきたのでしょう。

鏡の向こう側に無人の「ミラーワールド」がある「仮面ライダー龍騎」も、「Liminal Space」的といえるかもしれません。


オタクにとっての「Liminal Space」

ただ、「Liminal Space」の写真を見たときに感じる漠然とした懐かしさと
寂しさは、もう一つ想起させるものがあります。それは「ノベル(アドベンチャー)ゲームにおける背景」です。

『CROSS†CHANNEL ~For all people~』より

学園を舞台にしたアドベンチャーゲームには必ずといっていいほど登場する、学校の廊下のイラスト。立ち絵を表示するタイプのアドベンチャーゲームは、性質上背景イラストには人間が描かれないことが多いです。

複数人の立ち絵を表示する前提で描かれる風景のイラストは、空間の分かりやすさを提示するためのものなので、目的のために「人間がいない」風景として描かれているわけですが、結果として「本来、人がいるはずなのに不在である」風景が生まれます。また、ノベルゲームの場合はそもそも状況説明のため、無人の風景に直接テキストを載せている場合もあるでしょう。

ゲームを通して、この「人が不在の日常空間」というイメージが心象風景として刷り込まれているために、そういうコンテンツの経路をたどったオタクは無条件に「Liminal Space」に惹かれるのかもしれません。

まあ、『CROSS†CHANNEL』は「主人公たち8人以外」の人類が忽然と消えた…という状況から始まるゲームなので、そもそも抜群に「Liminal Space」的な作品なわけですが……。

暗闇に浮かぶコンビニ

「Liminal Space」の中には、「暗闇の中にポツンと佇むコンビニやガソリンスタンド」というようなものが挙げられる場合もあります。

「Liminal」という言葉には、もともと「光や音などを感知できるか否かの境目である」という意味があり、「境界」「閾(いき)」というニュアンスが含まれます。暗闇に浮かぶお店のシルエットは、周囲との比べて認知できる光の部分であり、暗闇に溶けてしまわない「境目」の場所である…と考えれば、こちらも「Liminal Space」といえるのかもしれません。

ちなみに、暗闇に忽然と浮かぶコンビニというイメージは『光の箱』(著:衿沢世衣子)という漫画作品がとても印象的なので、興味がある方はぜひ読んでみてください。こちらは、生と死の狭間に立つ不思議なコンビ二を舞台にした奇妙ながら心に沁みる作品。得られる感覚が非常に「Liminal Space」感が強いです。

この「暗闇に浮かぶコンビニ」というのは、なんとも不思議な不気味さと安心感を与えてくれます。得体の知れない闇の中では、人工的な光のほうが「人」を感じられて安心できるのですが、一方で本来それを使うはずの人間がいない…というアンバランスさが魅力的。それがどこか現実と非現実の渡し場、「生と死の境目」を感じさせる場所としてのイメージを与えてくれるのかもしれません。

「Liminal Space」は「非常に主観的な概念である(quite subjective)」と「Aesthetics(美学) Wiki」でも記載があるように、非常に曖昧です。ただ、この「なんだかよくわからないけど、懐かしさと魅力を感じる」という感覚は、本来名状しがたく、他人と共有することが難しいものです。人によっては何の変哲もない廊下の写真に見えるそれを、「分かる!」と共有できることができるのが「Liminal Space」の一番の魅力かもしれません。

参考:
・Liminal Space(Aesthetics Wiki)
https://aesthetics.fandom.com/wiki/Liminal_Space

・Liminal Spaces
https://twitter.com/SpaceLiminalBot

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