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「現実」への反逆の意志:「P5R」感想・考察(主に明智くんについて)


無印の「ペルソナ5」を仕事の忙しさも忘れ、連日夜更かししてクリアしたのがもう4年前…当時、確かな満足と、それでも捨てきれないモヤモヤがある中、他のエンディングを探していたことがすでに懐かしいです。

去年2019年に「ペルソナ5ロイヤル」が出たときには、とてつもなく心躍った…わけなんですが、如何せん序盤の何度も見てしまったイベントの連続(を周回でないステータスでやること)に、率直に言うとかなりモチベーションをそがれてしまったこともあり、しばらく積んでしまっていましたが、家にいることも多くなり、ようやくクリアすることができました。(この1年間、ネタバレだけは踏まないように徹底して避けられていたのは幸いでした。)

そんなわけで、しばらく置いたことで、P5自体も少し忘れかけていたころにできたのはかえって良かったのでは、という気がして、今更ですがその感想をまとめようと思います。



*以下、ペルソナ5・ペルソナ5ロイヤルに関するネタバレを含みます*



・3学期シナリオと「世界」のアルカナについて

賛否のある3学期シナリオですが、個人的には「ペルソナ5」という作品が伝えたかった想いが如実に反映されていたのでは…という気持ちがあり、とても充実した気持ちでエンディングを迎えました。

3学期シナリオを考えるうえで重要なのは、ペルソナシリーズ内で受け継がれている重要な要素である「世界」(ユニバース)のアルカナなのではないかと。P5・P5Rでは異世界での諸々が解決したのち、ベルベットルームでラヴェンツァから渡される(?)ものでした。(どちらかというと、もう手にしているよ、というニュアンスですが)

P4の「世界」アルカナが真・エンドと結び付いていたため、当時P5無印のときにはサタナエルのアルカナが「愚者」であることから、やはり真エンディングがあるのでは!?と躍起になった記憶があります。「クリフォトの世界」でコープキャラが呼び掛けるシーンはP3のニュクス戦と良くにてましたし。しかし、よく考えればヤルダバオト戦でジョーカーが常に言っているように、彼らは「世界を盗り返し」に来ているのであって、だからこそあの場面で登場するのは、「愚者」トリックスターの象徴としてのサタナエルがふさわしかったのだと思います。ヤルダバオトこそが歪んだ「世界」の総体であり、それに流されることなく立ち向かうことで、ジョーカーは「世界」(=自分の足でこの世界に立つ意志の力)のアルカナを「盗り返した」のでしょう。

そして、「世界」のアルカナはP2・P3の系譜から考えると「現実の流れをも変える大きな力」であり、そこには「代償が伴う」ものであるという定義もできます。P5Rはその意味を伝えるためにあった物語なのではと思います。現実というのは取り返しがつかず、一つの流れを選択するということは常に「代償が伴う」ものです。丸喜先生の現実は一見「世界」の力によって作り出されたようにも見えますが、その現実は「選択をしない=代償のない」世界で無限のモラトリアムに浸り続けるもので、やはり人々の可能性をなくすものです。

無印シナリオは、「意志の力で現実を選び取る」という側面が強く出ているのに対し、三学期シナリオは「現実を選び取ることは常に代償を伴う」ということを、明智くん・丸喜先生を通して示し、それでも「前を向いて成長していかなければいけない」という「信念」をすみれが示していたのではないかと思います。

P5で「こういう可能性があったらいいのに」とプレイヤー=ジョーカーが思ったことが3学期シナリオには反映されていて「これだよこれ!!」となっていたら、それはあくまでもモラトリアムで、いつかはそこを抜け出して現実に立ち向かっていかないんだ…というのを投げつけられるという、メタ的なプレイヤーの感情も巻き込んだシナリオ。丸喜先生に予告状を渡す際、明智くんから提示された選択肢には、ゲームだから正解はこっちだ…とは思いつつ、これを選ばせるシナリオのえげつなさよ…。

すみれが丸喜先生に感謝の意を伝えているように、モラトリアムや逃げる期間というのは必要なものです。でも、いずれは立ち向かわないといけない時がくる。人々が持つ可能性と、その代償、でも時々は逃げてもいいんだよ…という現実への希望と苦しみ、一時の休息を示したシナリオだったのではと思います。

無印エンドでは、主人公の地元まで全員の車で行く(=今はまだモラトリアム)であるのに対し、このエンドでは、3学期というモラトリアムを経験した怪盗団のメンバーはより一層それぞれの意志で歩くということを意識しているはず。その象徴として、3学期エンドでは駅で別れ、エンドロールでもそれぞれの道を進んでいる…という終わり方になっているのだと思いました。

無印発売当時は「真エンディング」の可能性を躍起になって考えたわけですが、3学期シナリオのおかげで、それが存在しない理由は自分の中で納得がいきました。

P4が「真実から目を背けない」物語であるのに対して、P5は「自ら考え意志を貫く」の物語であるので、そもそも着地点が違うのだと思います。だからこそ、どのエンディングもプレイヤーの想像=認知に委ねられる部分が多く、安易な真実に飛び付くのは思考放棄の牢獄だと言っているような気もします。P4はサスペンスミステリーなので、物語が収束する構造なのに対して、P5はピカレスクであり反逆の物語。各プレイヤーがその意思で結末を選びとるものなので、隠された真実…みたいな要素はそもそもないのが妥当でしょう。

・P5Rにおける無印エンドについて

無印エンドは当時からリュージの妙に意味深な台詞のせいで、こちらも真エンディングがあるのでは?!と勘ぐられる要因だったわけですが、三学期のことを前提に考えてみるとどうなるのか。

学期に突入する条件は「丸喜先生とのコープMAX」。すなわち、「丸喜先生がジョーカーの協力によって論文を完成させている」場合です。丸喜先生による現実改編が起きない場合は、主人公はそのまま出頭することになり、釈放までの時間が経過します。これは明智コープとは関係ないため、間違いなく丸喜先生による現実改編が、一番始めに影響したのがジョーカーであったことを指しているでしょう。

では、「3学期シナリオに入らない」=「論文が完成していない」場合はまったく丸喜先生の影響がないのか……というと、これもまた難しいところ。何故なら丸喜先生は元々ペルソナによる「曲解」の能力は持っていて、ヤルダバオトによってメメントスと世界が融合したことで異世界に入り、ペルソナに完全覚醒したわけなので、3学期を迎えない場合でも丸喜先生による影響は残っていたはずです。

ただ、「論文が完成していない」はイコール「異世界を解明できていない」ということなので、メメントスを利用して現実を改編するまでには至らなかったのだと思います。なので、一部がねじ曲がったままエンドになるのがP5Rにおける無印エンドなのではないかと。すみれは「かすみ」のままで、先生自身も留美とは離れたまま…そういう意味では誰かの夢の中とも言えるのかなと。

ただ、個人的にはこのエンドは先述したように、「いずれそれぞれの道を歩むけど、今はもう少しだけこのままで」という真の意味でモラトリアム的なエンドなので、高校生のジョーカーたちとしては一番相応しい終わりかたなのかなとも思います。先述の通り、丸喜先生の言っていることも間違いではない、いずれ立ち向かわないといけないとしても、少しの間逃避をしたっていいのでは?という中庸な終わり方な気がします。

アザトースが乗っ取れなかったメメントスはいずれ消滅するはずなので、「曲解」の効力も薄れていき、すみれも留美(そして丸喜先生も)いずれ現実に直面するタイミングは来る…とは思いつつ、P5Sとかも考えるとなんともね…。

・丸喜先生について

P5Rにおいて追加キャラとして登場した丸喜先生、発売前から黒幕説・実は悪人・文字通り協力者である…等々言われていましたが、ふたを開けてみたら「まったくの善人だが、人類の可能性を阻む存在」というP3~P5の中でも類を見ない複雑なキャラクターでした。

彼に関しては、追加キャラということで作中で得られる情報はそこまで多くないですが、彼に散りばめられたモチーフなどから、そのイメージを少し掘り下げていければと思います。

★アザトースとアダムカドモン

彼のペルソナとして登場するアザトースは「魔王」ともよばれるクトゥルフの神性ですが、かの神は宇宙を創造したとも言われています。(某ホテップもいるので、もっとえげつない感じかと思いましたが、あくまでペルソナではあるようです)また、アザトースは「白痴盲目」とも言われるように、多くの場合眠りにつき思考をしていない神であり、まさしく夢のような新たな現実を創造した先生のペルソナとして相応しい存在だろうと思います。(ペルソナシリーズを通して描写される、胡蝶の夢的なイメージもあるのかもしれません)

また、アダムカドモンは、原罪を負う前の真なる人類・超越者を指します。丸喜先生の追い求めていた苦痛のない現実は、すなわち現実を直視する知性を廃した世界です。「知恵の実」を食べる前のアダムへと全人類を導く…という先生の「現実に対しての反逆の意志」を体現したペルソナといえるでしょう。

また、罪に関連する内容として、ペルソナ5の各パレスには、それぞれ七つの大罪があてはめられていますが、マルキ・パレスにあてはめられているのは「悲嘆」。これは、7つの大罪の起源ともいわれているエウァグリオスの「八つの想念」に含まれている内容で、後年のように「罪」というものではないものの、修道士の修行を阻害する困難の一つとして認識されていたようです。預言者的な衣装をまとう丸喜先生に「悲嘆」が割り当てられているのもまた皮肉ですね…。

★「顧問官」というアルカナ

「顧問官」というアルカナ、耳慣れないワードですが、主人公たちに割り当てられているアルカナが「マルセイユ版タロット」であるのに対し、「エッティラタロット」(=エジプト魔術に起源をもとめるバージョン)の1番目のアルカナである「LE CHAOS(混沌)」というカードに由来するもののようです。このカードが、Consultantカードと呼ばれる、質問者の分身として場に常にあるカードであることからP5Rでは「顧問官」という、丸喜先生のカウンセラーという役割に近い和名があてられているのかと。

本来の意味が「混沌・カオス」であることからも分かるように、このカードは「愚者」の正位置と同様に始まりを示すカードです。正位置は「理想」を指し、逆位置は「知恵」を指します。(ひっくり返ると、先生が結果的に廃そうとした「知恵」になるのが皮肉)また、宇宙を創造したともされるアザトースともぴったりですね。

P4Gでの足立が「道化師」=「愚者」の逆位置、主人公と対になる存在であったのに対し、丸喜先生の「顧問官」は「愚者」とは近しいながらも別の可能性・現実を示すカードともいえるでしょう。

丸喜先生の作り出した現実は根本的な動機が善なるものであっても、行きつく先はヤルダバオトによる退廃の牢獄と同じく、思考を放棄した現実です。もしかすると、「ヤルダバオトとの取引に応じてしまったジョーカー」と丸喜先生=「顧問官」はかなり近しい存在なのかもしれません。

・明智吾郎について

無印のころから、彼の生存を信じてやまなかったプレイヤーは山のようにいたはず。しかし、アトラスはそんなぬるま湯な追加要素は用意してくれない…。そんなプレイヤーの願望を逆手にとったのが3学期シナリオとも言えるでしょう。
ただ、最終的には淡い希望を抱かせる要素を残されてしまい混乱してしまったので、3学期における明智がなんなのかと、正義コミュMAXでのラスト分岐の解釈を自分なりにつけてみたいと思います。

★「正義」のアルカナ

タロットにおける「正義」は、いわゆる「善」的なものを示すものではありません。正位置「公正さ」を示しますが、これは「判断に情が介在しない」ことも示しています。そして逆位置は「不正」や「罪」を示しています。……と見ていくと、まさしく明智吾郎という人間を端的に表しているアルカナですね。

★正義コミュでの分岐が意味するところ

重要なことは、正義コミュの進行度は3学期突入の分岐には関係していないということです。3学期突入に必要な要素は顧問官コミュの進行度のみであるため、どうあれ丸喜先生はイブの時点で「明智とやり直せる現実」を作ったということになります。

正義コミュによって分岐するのは、エンディング後のシーン、「明智らしき人物が映る」という変化のみ。その状況は、制服姿で黒服らしき人物に連れられている…ということしか分からないため、想像するしかありません。ただ、丸喜先生の現実=都合の良い面だけを認知する世界、を否定したといううえでの分岐と考えると、何らかの理由で世界に留まった明智が出頭・連行されている…と、考えたいところです。

というのも、あくまで黒幕は獅童であったとはいえ、実行も自分の復讐のために意図してやっていたわけで、明智の罪が許されるわけではないはず。勿論彼の境遇に怪盗団は同情的ではありますが、それでもジョーカーのように腐らずに立ち向かっている彼らは、その罪自体をなかったことにはしないでしょう。鴨志田の事件の時から一貫していますが、罪人に対しては「生きて罪を償え」というのが怪盗団の思想です。

最終決戦前、自分の正体に気づいていたと告白した後の明智は、消えることを怖がっていない…むしろ、率先して汚れ役を請け負って、そのまま消えることを望んでいるようでもありました。ただ、それは認めないぞ、罪を償って、そしていつか決着をつけよう…というのが正義コミュMAX分岐の意味するところなのでは…と思っています。

最終日に正義コミュMAXで吉祥寺のジャズバーに行き店主と話すと、ポケットに明智の手袋があることに気づき、「決着はついてない…」という意味深なテキストが流れます。

ジョーカーは明智という個人に対しては、張り合いのある好敵手であり友人のような思いを抱いていたのではと思いますが、一方でどうあれ人を手にかけた彼を信条として許すことはできないでしょう。だからこそ、いつか、何も邪魔するものがない状態で決着をつけたい、という想いが手袋に表れているように思います。

★正義コミュMAXの明智は「生きていた」のか?

さきほども触れたように、3学期突入には正義コミュMAXは関係ないこと(+ナビの雑魚の反応しかない発言)を考えると、シドウパレスではやはり明智は死亡していて、丸喜先生によって蘇生(「明智」が生きている現実を作ったので実質本人)させられたというのがしっくりきます。

しかし、だとするとそのことを認識した段階(=予告状時点を渡す時点)で、若葉や奥村父のように消えないのか?というのが一つの疑問ですが、これはそもそもヤルダバオトを討ち果たしたジョーカーに対して一番初めに作用したのがアザトースの力であり、それによってメメントスに接続し現実を書き換えるということができるようになっています。(=聖杯の座をかすめ取った)

すなわち、大衆の希望となっていたジョーカーが丸喜先生の現実を否定できるかが、最終的な鍵になっているということ。だからこそ、ジョーカーの望んだ明智は残り続け、これ以上やると彼は消えるんだぞ…と、最後まで「人質」であったということなのかと思います。(要は、いつでも諦めて彼と一緒の現実を選んでもいいんだよ、ということ)

では、正義コミュMAXでエンディング後に登場する彼はどういう存在なのか?これはモルガナの例を考えると良いのではと思います。3学期の明智は純粋な認知存在というよりは、ジョーカーたちが認識しているうえでは本人であることには変わりありません。

丸喜先生の現実で、いたことになっていた明智は、本来ならその現実がなくなったことで消えてしまうはずです。これは、ヤルダバオトを倒した後のモルガナにも同様のことが言えます。

モルガナはストーリーでコミュレベルが上がっていくまで、どんなプレイヤーもコミュMAXになるキャラクターです。彼がこの世界に留まることができた理由は、ベルベットルーム側の恩情…的な書き方がされているような気もしますが、ジョーカーとの絆が高い状態のモルガナは「食いしばる」ことができるはず。

そして、正義コミュがMAXな明智も、3学期では「食いしばる」ことができるようになっています。彼はシドウパレス時点でコミュは8になっていますが、この時点では「食いしばり」は習得していません。3学期になり、共闘する仲間として戻ってきたとき、コミュMAXで「食いしばる」ことができるようになったのです。(シドウパレスの一件があり、このまま消えるのではなく、罪を償い、いつかジョーカーと決着をつけたいという思いが明智にもあった…と考えるのは都合が良すぎるでしょうか…)

つまり、シドウパレスではやはり死亡していた明智は、丸喜先生の現実によって実質蘇生した形となる、そして現実が戻る際に消えるはずだったが、ジョーカーとの絆によって「食いしばる」ことができた彼は、現実がもとにもどっても、蘇生したまま消えなかったのではないでしょうか。

・すみれから貰える初詣の写真 ほか

あの写真は丸喜先生の現実改変がなかったら撮れないはずでは…?と一瞬思ってしまいましたが、ジョーカーがクリスマス以降少年院に入っているのは、ジョーカーたち以外の認知ではそうなっているだけで、主人公たちの認知では3学期は存在したことになっている(でないと進んだ各コープもリセットされているはず)ので、写真は普通に残っているのだと思います。ただし、認知の違うJOKER・すみれ以外には送れなかったり、見れなかったりするはず。(おそらく、1~2学期でのかすみスマホの不調のように、情報として伝わらない結果になるはず)

なので、すみれだけ3学期の記憶がなくなった…とかではないはず(そもそもバレンタインやホワイトデーは現実が収束したあとですし)。ラストのすみれが素っ気なく見えるのは、彼女にとっては恋人=演技を見てほしい相手なので、お互いの道をそれぞれ、前を見て歩みましょう、ということなのかなあと。


続編で明智が見れないのは惜しい部分もありますが、彼らの結論として、彼は塀の中で罪を償い続けていると思いながら…ようやくP5Sをやろうと思います。かすみはとてもいい後輩キャラだったので、こちらは是非再登場を願いたいところ…というところで、感想は以上です。

◆余談メモ

P5Rは、ある意味今までのペルソナシリーズに対して「認知」という共通のワードを与えることで、シリーズとして今後の展開をしやすくするという意義もあったのかなと思いました。影時間、無気力症、ニュクス、マヨナカテレビ、霧…それらはすべてP5Rで語られた設定をもとに、ある程度説明ができるものです。P5の売上的に、P5自体の続編やP6の期待もあるなかで、P5のアップデートと、今後のシリーズにつなぐ役割をしたのが、この作品だったのではと思います。

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