2時間半の立ち話のなかで。

本について、ずっと考えていた。
本の価値の所在や消費するということについて、考えたいと思っていた。

半年間ぐるぐると考えていて、何一つ確かな答えが見つからなかった。
本を購入する私と、本に関わりたい私がいるだけだった。

本は、情報を吸収するための媒体ではない。ということだけが私の主張だった。ただ、本は消えるものではない。だからこそ何をもって消費したというのかが分からなかった。
封を開けずに返本する本の束を申し訳なく思いながら、それでも今のところ続いている雑誌業界に少し嫌悪を抱いたりしていた。

本は逃げていくことがない。その時の考えを留め、見えないはずの言葉や熱がかたちとなって残る。

本と出会う人を増やしたいと考えるようになった。本は、「価値」というものを考えるのに至極ぴったりな存在な気がしてきた。その本の情報や佇まいに、価値を見出すことが本を手に取り、購入してもらうための最低限の必要条件だ。
そのことについてデザインしたい。


とりあえず今日がいい一日だった。
らましゃのおさださんに出会えたから。
とにかく私は、人と話すことが苦手で、どんなに言葉を尽くしても、
何も伝わらないような気になってしまうから。
でも、おさださんは、すごく優しくて、素直で、吸収してくれる人だった。
私の心の中が分かるようで、それでそれをどこかで肯定してくれるような気配を持ちながら、素直に会話をしてくれた。
すごくいい時間だった。
今まで私が考えてきた、無駄かもしれないと思っていた本に対するいろいろな気持ちが、無駄ではなかったと思えるような時間だった。

一人で抱えるはずのプレッシャーを分け合えることがすごく嬉しいことだと思った。自己利益に走らずに、それでいて不安や怖さをなしにしない、ありのままの人の心に触れることが、こんなにも暖かく嬉しいことなのだと知ることができた。

本は、本屋で買いましょう。
便利だからって、ネットで買っていると、
好きだった本屋の景色が見れなくなりますよ。

個人出版が増えていること。編集者さんが個人出版を持つこと。それらの本が書店に並ばないこと。続いてほしいけど、作ることが好きな個人出版は、売るちからが足りないこと。

アマゾンで売ること。価値を比べられること。
オークションに出すこと。そうなってしまっては、古書店は持たないこと。

寺山修司の本は読んだことはあるか。
と聞いてくれたこと。その本を買って、最初に書いていたことが雨の日の憂鬱をなしにすることだったこと。私が一度そういう本をつくることを制作にしようとしていたから、人生ってつながっているなと思いました。

本当はもっと聞いてくれないと思った。
一介の学生の話など、何の価値もなく、意味のない思考の連続をしてしまっていると思っていた。
本を読んでほしいのではなく、本に価値を感じてほしい。できれば、読んで、好きになってみてほしいと思うだけである。

そのことを今日、人と共有できて本当によかったです。

あとは、自分の好きな本に好きな値段をつけて売ればいいと言われたとき、
すごくじーんときてしまった。
それから自分の好きな本を失いたくないといったら、自分の好きな本なら、人にあげたらいい。本はまた買えるから。本はまた見つかるから。とにかく自分の好きな本は、人にあげたらいいよと。いらない本をあげてはダメだよ。

自分の好きな本に、自分で値段をつけて、人にあげることは
ものすごくおさださんそのものの考え方だと思った。
本は巡ることを知っているから、手放すことは巡らせることだとわかっているからそうすることができる。長年古書店にいるからこその考え方の癖だと思った。素敵です。

私は、このひとがいなくなってしまったとき、会話できなくなってしまったとき、ものすごく悲しむと思う。この人の死を受け入れたくないとさえ思うはじめましての出会いだった。


メモ
掛け率の話(基本は場所代として1割徴収する)。納品書をちゃんと書く。1冊づつ。置ける本は500~3000円くらいかな、3万円くらいのも数冊おきたいけど。本の興味の入り口になるようなものがいい。
自分の名前や学校を名乗るもの(身分証と言っていたが名刺を作る?)と、場所や時期を確定させて交渉する。うちが参加するから、古書店側の参加については問題ない。
まずは場所の確保。

昔、パルコの地下の本屋さんは詩集をたくさん扱っていて、そこに置いていたりした。よく売れた。新刊書店に古書を置いてもらうことのメリットは、間違いなくある。


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