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訝しさ

 いつからだろうか、なんとなく自分と外界との間には大きく隔たりを持たせる壁があり、私と外界が繋がることはできないのだと半ば諦めて生きてきた。私が自分の世界でどれだけ大声を出しても外界に届くことはなく、その代わりにどれだけ外界が私に厳しかったとしても外界は私に影響を与えることはできないという安心感があった。簡単に言えば、生きながらの引きこもり。私と外界は隣同士にあるけれど、そこが繋がることはなく、全く別個で存在しているものとして認識して生きるしかなかった。外界で起こっていることは私とは無関係で、どれだけ外界が私に厳しくてもそれは私には関係のない話だと感じて生きてきた。そのために、さまざまな人が私に怒り、諦め、最後には私を存在していない人間として扱い、自分たちの精神衛生を保っていたように感じる。  
 この状態になったのはいつからだろうかと過去を振り返ってみるが、少なくとも大学時代はまだ自分と世界の隔たりに苛立ちと息苦しさを感じ、それに対する怒りを周りに吐露していたように思う。まだその頃はどうにか自分と外界との間に接点を作ることができないかと足掻き、焦りを感じていた。そんな状態を経て、いつから完全に諦めるようになってしまったのだろうか。年々私の周りを囲う壁は強固になり、どれだけ周りが騒がしくても何も感じず、自分との関係を正確に見出せない。何かが起こっても、それが自分に向けられていることだと認識するまでに時間がかかり、人の怒りを買ってしまう。子どもの頃は自分と世界は繋がっていて、外界の出来事を自分事としてすぐに認識することができたのに一体いつからこうなってしまったのだろうかと自分を訝しく思う。

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