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笠懸聞書 鞍たち打入の事

小笠原 元長 (おがさわら もとなが、1433-1503)による。射御拾遺抄を記した京都小笠原氏の備前守小笠原持長の次男、兵部少輔、播磨守。笠懸聞書は文明16年(1484)に成立か。小倉実房による笠掛記には「小笠原備州は……同播州は……」と引用している部分があり、小笠原持長、小笠原元長の文書を参照しているとおもわれる。特にこの笠懸聞書からの影響が強く見られる。笠掛記が書かれたのは1512年ごろ。

一鞍たち打入の事。先馬を馬場本の扇形の中程に馬をひかへ。少扇形のかとのすみへんへ。馬の頭をむけて。扨矢をたかたかとさしはけて。同矢かまへを。いかにもひきくかまへて。ひちをたて。手綱を馬手の手に。二重にまつ持て。扨てきつとつゝ立て。いかにも鞍の中に立すかして。尻の方をはしつわへ出し。前の下かみをは。同鞍の前輪のほうへ馬の走かせしにつきて。きつしりきつしりとあたる様に。くらたちを心得て。さて馬を扇形のさきへたふたふと打出して。さくりのまん中へ馬をひんむけて。くるりと返して。同馬三かきかゝせて打入へし。引目のとう中へんを。馬のまつら中へ打入て。同馬を三かきかかせて。少ぬき出す様にして。ひらき出し。きつとこうてをつかひて。いかにもわかうてをさしのへて。扨て少矢さして。馬をかゝせて。やかて手綱をなにとなくすて候て。ひたゝれの袖にても。又はすわうの袖にても。少なをす様にして。矢はすを我むねのとをりにて出し合て取候て。歩弓の時の様に打あけて。同引きおろして。よくひきかためて。馬を少かゝせて。的のとをりにて。きつと弓手のこふしをうしろへねつる様に矢をはなせは。的のれんせんにしつと射つくる也。口傳以かくこ有へし。
一的に射付ては。左右のこふしをきつと少持て。扨同様に手綱をかきて。同的の方を少見送て。馬を能留切て。馬場末のかたへ打上て。次第次第に各の射手馬をひかへへし。惣して馬の次第は。さいしよと一後に可射事。賞翫の義なり。

笠掛記に書かれた笠懸の体配について、ほぼ笠懸聞書と同じといえる。また、笠掛記にあり笠懸聞書にない表現も射御拾遺抄に求めることができる。
例えば笠掛記の「鐙を承鐙の肉に能踏付。」は笠懸聞書にはない。しかし、射御拾遺抄には「鐙をそうたうのしゝにふんつけて。」と書かれている。他にも「矢さしの高さ。肩より水はしりなり。」(笠掛記)は笠懸聞書にはないが、「矢さしハかたより水はしり也。」(射御拾遺抄)などある。このように笠掛記は射御拾遺抄と笠懸聞書を参照して書かれているのは間違いないであろう。
反対に笠掛記においてわかりにくい表現につて射御拾遺抄と笠懸聞書によって明らかになることがある。「しとゝ射つけ。手の裡を射廻し。」(笠掛記)の部分、これは矢を放ち、手の内について説明したものである。しかし、この手の裡(手の内)が左右どちらの手であるかわからない。もちろん弓道など弓の稽古する者であれば、この手の内が弓手(左手)の手の内であることを理解することができる。笠掛記の著者もあまりにも明白なことなので、どちらの手であるかを示していないのであろう。
そこでこの部分を笠懸聞書に求めると「きつと弓手のこふしをうしろへねつる様に矢をはなせは。」とあり、手の内とは弓手(左手)の手の内であることが説明されている。また「射廻」という動作も、弓手(左手)の拳を後ろに「ねつる」様に矢をはなす、という意味だとわかる。「ねつる」はねじるとかひねるといった意味であろう。

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