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私とスピードガン Part1

分かる人には一発で分かると思いますが、このタイトルは山本義徳さんの「私と○○」シリーズから拝借させて頂きました。2013年に山本さんの「私とベンチプレス」シリーズを読んで以来、いつか私も書いてみようと思っていましたが、2013年からの6年の間に色々有り過ぎて書くタイミングをすっかり失ってました。

2013年(大学4年時)にはMax152km/h出てた球速が130km/h以下に下がったり、体重増やし過ぎて(ほぼ脂肪で86kg→93kgへ)失敗したり、胸郭出口症候群っぽい症状が出て指先動きにくくなったり、社会人1年目の2014年には都市対抗予選の試合中(5月だっていうのに極寒だった)に靭帯ブチッといって(決めにいったストレートだった)、その後リハビリに励むもトミージョン手術受ける事になったり、2015〜2017にはウエイトに偏り過ぎて(ウエイトを魔法か何かと勘違いしていた)投球の運動連鎖失って大失敗したり、その反動でウエイトに懐疑心が出て体重減らし過ぎて失敗したり、その後2017年12月には全く投げれなくなって関節唇縫合術を受けたり、それでも治らず2018年にハムの腱を関節上腕靭帯の補強として移植する手術を受けたり、色々な経験をしたので(いざ列挙してみると失敗多過ぎて自分でも引く)、少しずつではあるけど投げられる様になってきたこのタイミングで一度まとめてみようと思う。

Part1 スピードガンとの出会い

私は球速というものに囚われ、152km/hまで球速を伸ばし、傲慢にも球速の上げ方を完全に理解したと思い込み、結果的にそれを失った。
今、それを取り戻す為にリハビリを続けているが、正直完全に元に戻るかは分からない。

この間、神宮の室内で行われたアスレチックスのトライアウトでは、5年振りくらいに腕が振れる感覚があって、92mph出ていたと言われた時はもう本当に涙が出るくらい嬉しかった。
ただのブルペン投球であそこまで嬉しかったのだから、試合で150km/hまた投げられた時はどんだけ嬉しいか想像もつかない。


150km/h台を最後に投げてから5年になるけど、未だに150km/h超の速度でボールが自分から遠ざかっていくあの感覚が忘れられない。それを取り戻す為なら、本当にどんな事でもやりたい。勿論それを諦めなければならない時が来るのは分かっているが、可能性が0になるまでは抗いたい。

今となってはこんな風になってしまった私だが、そもそも高校ですら野球を続けるつもりはなかった。中学からテニスも始め(野球部の練習の後にテニススクールにも通っていた)、そっちの方が面白くなってきたので高校は硬式テニス部がある所を探してそこを受けようと思っていた。
そんな私が高校で野球を続けようと思ったのは、2006年にハンカチフィーバーで高校野球が物凄く盛り上がって「高校野球やってみるのも良いなー」と思った事と「高校で自分が140km/h出せるかどうかを確かめたい」と、ふと思い始めたのがきっかけだった。

中3の時は、コージィ城倉さんの「おれはキャプテン」を読んでいたので「強い高校でやりたい」とか「甲子園に行きたい」とかは1mmも思ってなかった。
当時、身長は173cmくらいだったが、中3の秋頃には硬球ボールでも遠投100mくらいは投げられていた事もあり、身長175cmくらいまで伸びたら何となく出せそうだなーと何の根拠も無いながらも思っていた記憶がある。それから、中学の先輩とか親とかに色々情報を聞いて、自宅から1番近かった茨城県立古河第三高等学校という高校に、ウエイトトレーニングが出来る環境とスピードガンがある事を知った。
小学5年生の時に「バッティングの正体」を読んで以来手塚理論にハマり、「ウエイトトレーニングはアングロサクソン系の人種が生み出した運動であり、直線的な運動を繰り返すトレーニングは回旋運動を下手にする!」と本気で信じ込んでいたし、中学2年生でオスグッドになったのをきっかけに初動負荷理論を知り目黒にあったアーストレーニングセンターに通ってたくらいなので、ウエイトトレーニングはやった事がなかったし、その頃はむしろ懐疑的だった。
ただオスグッドも中3の頃には治っていたので、高校ではウエイトをやってみたいと思って、あまり深く考えずにその県立高校に入った。

その当時は、大学でも野球を続けようなんて微塵も思ってなかった。大学ではやり投げかハンドボールでもやろうかな、とか思ってたくらい。それがたった4年後には早稲田で野球をやる事になるんだから人生何があるか全く分からない。

前置きが長くなったが、私がスピードガンで球速を初めて測ったのは高校1年生の4月、部内での紅白戦だった。
忘れもしない、その時の数字は125km/h。
それを知った時、私が思ったのは「唐川と同じか〜」だった。当時の野球小僧に、唐川投手(現ロッテ、当時は成田高校)が初めて測った時は125km/hで、その後すぐの夏頃に137km/hになった、という記述があった。
私はそれを読んでいたので、140km/hという大台までの差にもさほど焦りは感じず「まあ125km/hなら及第点だな」くらいに思っていた。
余談だが、当時はスライダー(自分ではカーブだと思っていたが、周りからそれはカーブじゃないと言われて呼び方を変えた)しか投げられなかった。

そしてそれから少し経ったある日、ウエイトトレーニングというものに初めて遭遇した。

初めてウエイトを行った日(バーベルを握った日)の日付までは覚えていないが、その日は雨だった。湿っぽい体育館の2階で初めて行ったウエイトトレーニングはベンチプレスだった。その時にやり方を教わった記憶はないが、40k×10は割と余裕で出来た記憶だけはある。その日スクワットやデッドリフトをやったかどうかは覚えていない。

私の高校の野球部で行っていたウエイトは超シンプルで、

1.バックスクワット
2.床引きデッドリフト
3.クリーン
4.ベンチプレス
5.チンニング
6.ダンベルワンハンドロウ(何故かD.Bと呼ばれていた)

の6種目だった。今思い返せば意外と、高校生にやらせるには厳選された悪くない種目群だと思う。ただ、当時ウエイトに関しては軽くフォームを習っただけだったので、ピリオダイゼーションなんて言葉は勿論知るはずもなく、重量設定のやり方も知らず、レップ数もとりあえず10回×3セットやればOK、スクワットとデッドリフトの時はとりあえず腰にベルト巻いて挙げれば良いか、みたいな感じだったので、効果が分かる様になるレベルになるまでは結構時間がかかったと思う。

後は「スタビ」と呼ばれていた脚のアイソメトリクストレーニングや「8種腹筋」というメニューもあった。これらは結構キツかった。

うちの高校のウエイト施設は体育館の2階にあったけど、パワーラックも1つあったし、バーベルやプレートもIVANKOで揃ってて、プレートの総重量も200kg以上はあったので、今思えば公立高校にしては結構良い設備だった。というか、当時は全く使ってなかったけどマシン類も全身各部位完備されててエルゴメーターもあったしかなり良い環境だったと思う。

初めて行った1RM測定の事は正直あまり覚えていないが、BSQが80kg挙がらなかった事だけは覚えている。これはチームの1年生の中でも結構弱い部類だったので軽くショックだった。中2でオスグッドになってたので、多分当時は膝関節でスクワットしてたのだと思う。ただチンニングは、周りが殆ど数回も出来ない中、当時65kgくらいの体重で10数回出来たので驚かれたのも覚えている。クリーン、デッドリフトに関しては全く記憶なし。

当時(高1、4月頃)の球速とフィジカルスペックは、
球速125km/h
身長 173.5cm
体重 65kg
ベンチプレス 40k×10は出来る
デッドリフト 不明
スクワット 70kgは出来る
クリーン 不明
チンニング 10数回
立ち幅跳び 265cm
50m 6.8秒

こんな感じ。まあ体重も軽過ぎるし、筋力は弱いし、125kmが妥当。というかむしろこんなフィジカルスペックで140km/hなんて投げたら即どこか故障していただろう。

当然ながらこの程度のピッチャーだったので高1の夏はベンチ外だった。確か高1の夏は2回戦で下妻二高に負けて終わったと記憶している。

それから数ヶ月経ちウエイトも練習も人並みにこなし、ピッチャーとしてまたスピードを測る機会が訪れたのは、おそらく高1の秋頃、確か10月だったと思う(肩は強かったがコントロールがあまり良くなかったのでいつの間にか外野メインになっていた)。
この頃はまだ日記も書いておらず、記憶も曖昧なのでぼんやりとした事しか書けないのだが、どこかとの練習試合で投げて128km/hが出た記憶がある。+3km/hの更新だったが、120km/h台の+3kmだったので、大して嬉しくなかった気がする。ウエイトをやっていた記憶もあまりないが、大分バーベルを握る事に慣れてきた頃だったと思う。

(当時、腰に革のウエイト用ベルトは巻いていたが、何せ教わってなかったので腹圧とかを意識した事はなかった。リストストラップは全く使ってなかったし、存在すら知らなかった。プロテインは、チームにDNSのストロベリー味があって、美味しかったので朝練の後とウエイト後だけは飲んでいた。)

その後、数週間以内にどこかで129km出した記憶もあるが、正確には覚えていない。

そしてそのまた少し後、高校1年の冬の練習試合最終戦、これは今でもはっきり覚えている。この試合で私は130km/hの大台に初めて到達した。今の時代130km/hなんて中学生でも余裕で投げるけど、私みたいにやっと高1で130km/hに届いてそこから速くなる人もいるから、高校で球が遅くても諦める必要は全くない。

話逸れた。この最終戦、相手は確か下館商工高校だったと思う。午後の2試合目にリリーフ登板して、ボークを1回くらった(セットポジション不静止)覚えがある。その時のフォームは藤川球児投手をイメージして、上からぶっ叩く様に投げていた。それがその時はハマったのか、かなり指にかかっていた感覚があった。試合に勝ったか負けたかは全く覚えていないが、その時に130km/hが出た事ははっきり覚えている。その当時、体重はちょっと増えて68kgくらいになっていた。

ここで当時(高校1年生11月下旬)のスペックを。
球速 130km/h
身長 173.5cm
体重 68kg
BP 70kg1回は出来た
DL 覚えてない
SQ 覚えてない
CL 70kgは出来た
チンニング 10数回

ウエイトの記録が残ってないから何とも言えないが(記録取っておくのは本当に大事)、まあ当時は質としてはろくなウエイトをしてなかったので、トレーニングの成果というよりは、成長期特有の身体の成長によって勝手に球が速くなっただけ、と考えるのが自然だろう。

とりあえず2007年終了という事でキリが良いので今日はここまで。

2008年からは日記を付け始めたのでより詳細な内容が書けると思う。

↑古河三高のウエイトルーム。フリーウエイトもIVANKOで揃っててマシン類も全部位あったし、エルゴメーターもあったし県立高校としてはかなり設備は良かったと思う。当時はフリーウエイト以外一切使ってなかったけど。