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私が「私」を生きる理由

皆さんこんにちは。
森入りしてあっという間に2ヶ月が経とうとしています。大学進学と同時に山形の田舎を離れた私。ディズニーランドと同じくらい広いですという謳い文句の大学では、銀杏並木がめちゃくちゃ綺麗で、お掃除のおじいちゃんがいつも軽トラックに山積みの落ち葉拾いをしていました。

あの頃は、そんな風景に「秋」というものを感じていたけれど、社会に出て日々を慌ただしく過ごしていると、四季から秋がなくなったんかな?と思うほどに夏と冬が近くなったように感じる。というのは私だけではないはず。

世間的にもハロウィンが終わったと同時にクリスマスのCMや音楽が流れ出し、スタバの紙コップも早々にクリスマス仕様に変化します。クリスマスケーキの予約をお勧めされたり、チキンの予約は何日まで、と煽られたり。そんな感じに「秋って日本から消えたんかな」と過ごした数年間。しかし、森に来て物凄い「秋」というものを感じています。

何が?、といえばそれは紅葉であり、味覚であり、そして匂いだと思います。もみじが赤く色づいて美しい紅葉になるためには、空気中の水分が必要となり、ゆえに紅葉の名所と言われる場所は渓谷や川沿いが多いということも森に来て知りました。そして、栗や柿、きのこなど秋の味覚と言われるものがすぐ身近にある環境。究極的には「なんか匂いが秋」という抽象度の高い感覚で、日本の四季を改めて感じているこの頃。

見えなくなっていただけで、実はそこにあるもの。
それって案外に色々なことに当てはまるのではないでしょうか。

例えば「私」という存在そのもの。
そして、このnoteを読んでくださっている「あなた」という存在。あなたをあなたたらしめているものはなんですか?という問い。

よく「旅に出る理由」に「自分探し」という表現が使われます。そもそも自分が自分自身であれば、自分を探す必要はないわけで。自分で自分を見失っているからこそ、「探す」必要が生まれるんだと思うんですよね。

TOUCAという長い旅を経て、自分自身を取り戻せた感覚。私は私なんだと思いながらも、それでも旅を続ける理由。それは多分「本当の自分を生き続けた先に何があるのか。」が知りたいのだと思う。

人は役割を与えられた瞬間に何者かになろうとする。それは学生だろうが、企業に所属していようが、フリーランスだろうが。そんな肩書きを置いておいて、「私」個人が命を使い続けたらどんな世界が待っているんだろう。なんてそんなことを考えている。その状況におけるそれっぽい「最適解」ではなくて、自分自身を生きるということ。そのために命を使うということ。それができたら、少なくとも「幸せ」という状態にいるのではないかな、と最近本気で思っている。

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