見出し画像

神奈川・厚木#1 中央通り防災建築街区(コンクリート長屋群)

今回は、自分が以前仕事をしていたエリアのずっと気になっていた建物のことを記録しておきたいと思います。「中央通り防災建築街区」という、いかつい名前の建物でコンクリートの3階建ての長屋群です。現在も一部残ってますが、ほぼほぼ建て替わってしまっていて、かつては道路の両脇に7~10戸建て程度のコンクリート長屋が4棟づつ、計8棟が約300mほどに並ぶ風景が作られました。

中央通り防災建築街区の写真
航空写真での位置関係

簡単にこの長屋群の説明をすると昭和38年から昭和42年の間に、従前の木造2階建ての建物(おそらく1階店舗の2階住居の町屋タイプ)がこの時期に順番にコンクリートの3階建ての建物(1階店舗の2,3階住居)に建て替わっていきました。
この建て替えのプロセスが面白く、土地は従前の間口のままで、建物が共同ビル化しています。建物は一体だが、壁を挟んで所有権が分かれています。建築主は、「厚木市中央通り防災建築街区造成組合」という地権者たちの団体で、それぞれの商店主がローンを組んで、建て替えをしたそうです。厚木市が昭和36年に公布施工された「防災建築街区造成法」のもと計画を主導し、補助金も国、県、市から受けているとのことです。また、道路拡幅も伴う事業で、8mから18mの幅員に拡幅し、国道なので土地所有者は国から土地代金と既存建物の補償金が支払われたそうです。東京工芸大学の海老澤先生の研究により、そのお金の割合までわかりますが、補助金は、総建築費の7%ほどにすぎず、借入金が40~70%の金額となっています。つまり、商店主の多くが、費用の半分程度もしくはそれ以上をローンに頼り、この開発に将来を託していたということになります。※1

表面はモダニズム的なデザインで統一されるのですが、裏はかなりデコボコしていて、棟ごとに全く違うやり方をしてるのが面白いところです。裏は、おそらく従前の商売などの条件からも立ち上がっていて、お米屋さんなどは裏の母屋と蔵をそのまま残して、2階をスナック、3階を賃貸物件になっているパターンもありました。
この長屋群の設計は、日本不燃建築研究所による設計となっており、同時代の多くの防火建築帯や防災建築街区の設計を行った事務所です。

南側の裏側から見た昔の全体写真
C棟の現存している部分の写真
E棟の裏側の写真

※1 東京工芸大学工学部紀要Vol.41「厚木中央通り防災建築街区の成立と変遷」海老澤模奈人より

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?