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待ちぼうけ

 仕事帰りに待ち合わせ。その人からの申し出になるべく早く会った方がいいなと思った。お互いの都合を合わせると昨日の夕方しかない。その人は仕事が終わり次第に来てくれることに。ぼくは、仕事が終わってから2時間を待ち合わせ場所近くのカフェで過ごすことにした。
 15分前に待ち合わせ場所に移動した。都心の大きな駅構内のショップや飲食店が集まる「エキナカ」へ。夕方は、仕事帰りの人たちが行き交い、いつ以来なのか、久しぶりに足早に歩く多くの人間を見た。指定された場所に立ち続けていると、同じように待ち合わせをした人たちが、あまり待つこともなく出会っていく。スマホで連絡が取り合えるために、同じ場所に居続ける必要はないのだと思った。


 駅構内での待ち合わせは行き違いや迷わずに会えるためだった。約束の時間が、10分、20分、30分と過ぎていく。スマホをチェックしても連絡は入らない。きっと仕事が長引いて連絡できないのかもしれないと想像していた。60分過ぎたところで連絡がないためにLINEを入れた。それからは、雑踏を行き交う人たちを眺めながら、5分ごとにLINEをチェック。既読がつかないことに不安になっていく。90分過ぎて、足がしびれて立ち続けることがしんどくなってきた。あと10分と決めて待つことにした。
 構内を警らする若い男女ペアの警察官から声をかけられた。いわゆる職質だ。長時間にわたり同じ場所にいるだけで不審者に見られたとわかり驚いた。足早に行き交う人たちのなかで、同じ場所に90分立ちすくむことは目立つのは当然だと思った。事情を話したら笑みを浮かべて「ご苦労さまです」と労ってもらった。立ち止まらない場所で立ち止まることは異様に思われる時代なのだろう。120分過ぎたところでLINEを入れて、待ち合わせをあきらめて帰ることにした。


 通勤客であふれる車内で、携帯やスマホがない時代は、駅などの目立つ場所には待ち合わせの人がたくさんいたことを思い出していた。そして、同じように待ち続けてきた記憶が甦ってきた。プライベートでも、仕事でも、その人の「待つ」態度とそこから生まれる感情はひとりひとり違うのかもしれない。ぼくは待つことは嫌いではないようだ。待ちながら出会えない状態は「待ちぼうけ」となる。その人のことを深く想う時間になっている。そう考えていたら、ふと気づいたことがある。待ち合わせの約束はしていないけれど、待ちぼうけの状態になっている人たちがいることを…。会えないからこそ、あなたのことを深く想うことができる「待ちぼうけ」は、せつなさという感情を運んでくるとともに、その人とのことを大切にしていることを教えてくれる。


 今朝は腰が痛い。重いリュックをなぜ背負い続けたのだろう? 鷲田清一『「待つ」ということ』(2006)を再読したくなっている。

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