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フリー・ライティングと私

 久しぶりにポメラを引っ張り出して文章を思いつくままに打つ。いわゆるフリー・ライティングだ。普段使っているMacBook Airでは親指シフトにしているのに、しかもポメラでもその設定が可能なのに、ローマ字入力だ。指が混乱するかと思ったが、そのようなこともなく、案外スラスラと打鍵できた。

 フリー・ライティングというものを知ったのは、いつのことだったろう。「決して手を止めてはならない。書くことが思い浮かばなかったら、書くことがないと書け」。この指示に従って書き続けていると、思いがけない発見をすることがあり、一時は毎朝書いていた。人にも随分と勧めたように記憶している。

 けれどもそのうちしなくなった。書くことに焦りを感じている自分に気づいたからだった。焦りは字の汚さに、言葉の単調な使い方に現れていた。それはつまり自分の中が空っぽだったからだろう。人と真剣に話して自分の魂が揺り動かされることもなく、本の深みにはまって下車すべき駅を通り過ぎてしまうこともなく。そんな日々をやり過ごしていれば、心の奥底が枯渇してしまうのは当然なのだ。義務としてしなければならないことに少しでも工夫を凝らそうという気持ちで取り組んでいれば、渇くこともなかっただろうが。

 幸い、今は渇いていない。「充実してます!」と言うほどではないけれど。noteを書き始めたからではない。むしろそれは結果だ。Duolingoも今日のフリー・ライティングも結果だ。どうして今の状態になったのか、実は自分でもよくわからない。ただし、「何かに触れたからというより何かが触れたから」という感じは持っている。運が良かったとしか言えない。

 その「何か」に感謝しつつ。


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