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生きたい場所で、生業を創る。

 高知県安芸市の畑山集落は、私が選んだ生きたい場所。

 鎌倉期から名前のあった桃源郷のような、山あいにある小さな里だ。

 小鳥たちのおしゃべりが始まった、と思うとお日様が顔を出し、お山の緑に反射した優しい光に里が包まれていく。

 ハンモックに揺られていると、集落の真ん中を流れる畑山川の音や、葉擦れの音、小鳥やシカたちの鳴き声が心地よい。

 満月のほんわかとした月明かりも落ち着くけれど、新月で自分の手のひらさえも見えない闇夜に浮かぶ数多の輝きに宇宙への興味がわく。

 ここで暮らしたいと思う幸せが日常にあふれている。


井戸さん

 でも、畑山で生きることは、けっこう大変だ。

 1954年に安芸市と合併する前は、まさしく畑山村だった。

 800人が暮らしていた。

 今は20人。

 還暦以下は、我が子を含むはたやま夢楽のメンバーだけ。

 畑山から外に繋がる道は、県道のみ。

 近くの集落は消滅してしまい、今、一番近い集落までは約15㎞離れている。

 県道は、畑山川・安芸川沿いのくねくね道で狭く、雨などによる土砂崩れもよくあり、孤立することもしばしば。

 2018年の西日本豪雨の際には、完全に孤立をし、被災4日目に、私たちは、自衛隊と消防のヘリコプターで市街地まで運んでいただいた。

 山がちな集落内には、農地はあまりない。

 金融機関はもちろん、学校も商店も、公共水道もない。

 固定電話も基地局からの距離が遠く、音声が遠かったり雑音が入ったりする。

 携帯電話は2社だけ集落の中心部でのみ使えるようになり、インターネットは衛星も活用している。


新聞記者を辞めて、畑山へ


 私が初めて畑山を訪ねたのは、2004年のこと。

 都内の大学に通う3年生の時だった。

 国土交通省のモニターツアーで安芸市を訪ね、畑山にも泊まった。

 大きなショックを受けた。

 人口の減少過程にも、もちろん驚いた。

 でも、畑山での暮らしを諦めず、人を雇用できるような産業創りを意気込む靖一さんに出会ったからだった。

 「村の祭りも、産業も始めた誰かがいて、繋がってきた。今、無いのならば自分が始めればえい」。

 靖一さんが育てる高知県の地鶏「土佐ジロー」を食べながら、畑山で生きる想いや、夢を聞かせてもらった。

 1958年に畑山で生まれた靖一さん。

 小学校に入学した時は13人いた同級生が、中学校を卒業する時には4人になっていた。

 「なんで、好きなむらを出ていかないかんのか?」

 大工だったけれど、人がいなくなった畑山では家は建たない。

 大工を辞めて、畑山でできる農業を模索した。

 そして、土佐ジローを生産、加工、販売するようになった。

 私が宿泊した宿は、靖一さんが引き受けたばかりの食堂宿「はたやま憩の家」で、安芸市が経営難から指定管理制度を導入したのだった。

 大学卒業後、出身地である愛媛県に戻り、新聞記者になった。

 休みになると、各地の農村を訪ねていた。

 畑山も年に一度は訪ね、憩の家にお客さんが増え、さらにはコアなファンができつつあることに土佐ジローの商品力の強さを感じていた。

 自分の生きる場所としての決意を固めた2010年、突如、押し掛け女房のような形で、靖一さんのもとへ飛び込んだ。

 25歳の年の差と、「限界集落」への移住もあいまって、私たちの結婚は周囲を驚かせた。

 「学校で、就職するでも、嫁に行くでも、家よりも一歩でも町に近いところに出るように言われた。なぜ、畑山へ来たのか」と言う人もいるくらいに。

 動物園のパンダよろしく、顔だけ見に来る人や、「おまえが嫁か」と突然やって来るおんちゃんたちもいた。

 面白いのは、「お金ができたから嫁に来たのだろう」とやって来る人がいる一方で、「何かやらかして逃げて来たのかも知れない」と宗教の勧誘に来る人もいて、両極端なことだった。

 人の勝手な解釈は不思議だった。


 靖一さんが人生を懸ける土佐ジロー

 
 土佐ジローは、高知県が中山間地の高齢者の生き甲斐対策として開発した卵肉兼用種。

 天然記念物の「土佐地鶏」と在来種「ロードアイランドレッド」を掛け合わせた一代種で、もともとの肉活用は、卵を産み終えた親鳥のイメージだった。

 靖一さんも、1987年に父の同世代の農家と計5軒で、卵用として共同で生産を始めた。

 行政の事業で、親鳥の処理加工場も畑山に建設されたが、産卵率が安定しない、コストがかかり過ぎるなど課題ばかり。

 父も亡くなり、他の農家の高齢化もあいまって、靖一さんだけが残った。

 「ジローで地域興しを!」との想いと、建てられたばかりの加工場への責任感から、「地鶏と言えば、肉だ!」と雌雄鑑別で廃棄されていた雄を食肉として専用に育てることにした。

 「牛肉よりも高価になる」と反対もされた。

 一般的な鶏肉は45日で3㎏以上になるのに、ジローは成鶏になる150日でも1.5㎏にしかならない。

 それでも、「高くても旨い鶏肉を求める人はいるはずだ!」と諦めなかった。

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 ジローは小柄で、運動能力が抜群に優れている。

 肉用としての飼育を始めた当初は、広い鶏舎を建てたが、せっかく与えた餌が運動で消化されて肉にならず、筋肉が発達し過ぎて人が食べるには固くなり過ぎた。

 小屋の屋根を飛び越えて脱走し、その上、川を滑空して渡ってしまい、鶏舎と川向こうで鳴き合いをしていることもあった。

 建てたばかりの鶏舎を壊しては、また建て直し、ジローにあった形を探った。

 最初は大きな一つの部屋だったところを、幾つもの小屋に分け、その中でストレスを感じない適正な羽数に絞り込んでいった。

 「3歩歩ければ忘れる」

 鶏はつつき合いをしていても、視界から相手がいなくなると忘れてしまう。

 視線を変えるために階段状の止まり木を設けると、喧嘩しなくなるだけでなく、食べてすぐに休むことにも繋がって、肉質を格段に向上させた。

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 10年掛かったけれど、高値でも取引できる手応えを掴み、国の制度資金を活用して、増羽を決めた。

 運よく、テレビの人気番組でも紹介され、飲食店など新規の取引先とも繋がった。そして、憩の家の運営を引き受けたのだった。
 

 憩の家は、1980年代に安芸市が福祉目的で造った温泉施設だった。

 しかし、住民の急激な減少や重油代の高騰などから、累積赤字がふくらみ閉鎖対象に。

 すでに小中学校もなくなった畑山では、唯一、外から人が来てくれる場所だった。

 最後の拠点が無くなれば、県道の維持もされなくなることへの危惧を強くし、残す方法を相談する中で、指定管理制度を知ったのだった。

 
 憩の家を引き受けた靖一さんは、ジローを看板に掲げ、親子丼やオムライスのほか、たたきや炭火焼などを盛り込んだコース料理を作った。

 炭火焼の際には、自分が、お客さんの目の前で一切れずつ焼いて食べてもらうスタイルを取った。

 生産者が営む食堂宿として人気となり、年間8,000人が訪れるようになった。

 しかし、重油代は年間100万円を超えて、経営を圧迫していた。

 入浴の売上額は、重油代さえまかなえていなかった。

 安芸市との契約では指定管理料は無く、条例で定められた金額設定を変えることもできないでいた。

 その上、福祉施設としての無償サービス提供などで見合う収入は得られないまま、慌ただしい日々を過ごしていた。


お金をかき集める日々


 厳しさは覚悟の上だったけれど、予想をはるかに上回って大変だった。

 靖一さんの経営する「はたやま夢楽」は、いつ倒産してもおかしくない状態だった。

 私の貯金もあっという間に、餌代や温泉を沸かす重油代に消えていった。

 家族皆の財布を持ち寄って、膝を突き合わせ、請求書とにらめっこしたのが、嫁に来た年の大晦日のことだった。

 なんとか軌道に乗せようと、経費の洗い出しをし、何をすべきなのかを夫や家族、従業員たちと話し合った。

 飼料内容や飼育日数の管理、国の制度である飼料米を導入するなど、経費削減と肉質を向上させるための取り組みも行った。

 財布事情は厳しかったけれど、安売りをしたり、利益だけを追求することはしなかった。

 経営のノウハウが無かっただけかも知れない。

 でも、厳しい中で、はたやま夢楽の応援団になってもらえるような関係性を創ろうと、お客さんの満足度を高める工夫を重ねていった。

 ニーズに合わせ、数字を示して行政との交渉をし、経営を圧迫していた日帰り入浴部門は休止し、ランチの営業時間を短縮した。

 利用客数は年間3,000人を割り込んだが、売上額は増やすことができた。

 今も厳しさは続いているけれど、スタッフの超過労働が解消され、空き時間が増えたことで、宿の手入れに人手を割くことができるようになった。

 加えて、お客さんと一緒に川で遊んだり、夜の星空観察やホタル探しをしたり、共に楽しむ時間が持てるようになった。

 すると、応援してくれ、リピートしてくれるお客さんも増えていった。
 

 一息付けると思った2017年夏、安芸市の指定管理で運営してきた加工場が2018年度末で取り壊されることが決まった。

 畑山で建設をするには約4千万円かかるという。

 廃業や市外への移転なども浮かんだが、畑山での継続を決めた。

 金融機関にお願いする一方で、クラウドファンディング(CF)に挑戦した。

 お金が欲しいということもあったけれど、私たちの選択が支持されるかが、なにより知りたかった。

 半月で目標額の500万円に到達し、胸のつかえが降りたのは6月末日のことだった。

試練は続く

 その直後、7月に西日本豪雨が畑山を襲った。

 土手が流され、県道も次々に飲み込まれていった。

 歩いても外の集落には行けず、ライフラインは全て寸断された。

 絶望を感じた。

 でも、靖一さんはこう言った。

 「俺らは運がえい。鶏舎も建物も無事や!ジローも生きとる。水さえあれば共食いするまでに数週間はある」

 この前向きな思考に呆れたけれど、なんとかしよう、と思えるようになった。

 家族やスタッフと、歩いて鶏舎へ通いながら、集落の皆の安否確認を繰り返した。

 孤立から4日目に、私は子どもや周囲の高齢者と共に自衛隊のヘリで救助してもらった。

 靖一さんと義弟、従業員は畑山に残り、ジローの飼育を続けた。

 救助された日から始まった復旧工事で、数日後に電気が復旧し、道も孤立から10日目には仮復旧した。

 おかげさまで、ジローが飢えることもなく、ヒナも無事に仕入れられた。

 20日目には加工場を稼働することができ、8月には憩の家の予約営業も再開できた。

 CFも最終的には800万円が集まった。

 道が流されたことで、工事車両が往来できず、大工さんたちにも苦労をかけたけれど、ぎりぎり2019年3月に加工場を稼働させることができた。


これからも、畑山で生きるために生業を創る


 市街地で暮らせば、しないで済む苦労はあると思う。

 天災もまた、やって来ると思う。

 でも、私たちは、大好きな畑山で生きたい。

 苦労はしても、不幸ではない。

 畑山の暮らしは、幸せに満ちているから。

 靖一さんと描く畑山の未来は、穏やかな色合いに包まれた賑やかな里山の姿。

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 無いものねだりではなく、畑山にあるものを生かしていきたい。

 若い人たちが畑山で働き、暮らす楽しみを見つけられるように、また都市部の人たちが畑山を故郷のように思って何度も訪ねて来てくれるように、これからも畑山にこだわった生業創りをしていきたい。

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