有産 と 無産 と クッキー☆ Ⅰ




♨前書き♨


誰が言いだしたか
「有産」とか「無産」とか、
そういう耳慣れない言葉を聞くようになった。

主に最近のクッキー☆界隈で耳にする。

有産と無産、 
有と無、
何の有無を言っているのだろうか。

何かを産む事の有無なのだろうなというのは
文字の並びから推察される。

ではいったい何を産むのか?と言うと

人によって答えはてんでばらばら
なようである。

それならそれで、人によってばらばらな認識の言葉。
で済ませてしまってもいいのだけれど、
言葉の定義が個人であまりにも違っているようでは、
コミュニケーションもままならない。


「ここ」で自分が定義したとて
各々が既に持ったイメージを塗り変えられるとは到底思わないが、


何もしないのもまたしょうがないので、
まあちょっと考えて、言葉として残してみようと、試みる。

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~自己矛盾兄貴の唱えた有産無産論~

有産だの無産だのいうよく分からない言葉は、

最近では主に
自己矛盾兄貴という御仁が、やけに多用していたのが目立っていた。
それを見て、有産無産の言葉の定義を解釈した人も多いのではないか。

さて、
氏の唱える有産無産の定義とはどんなものだったのか。

自己矛盾兄貴の唱えた有産無産論は

端的に言うと、
創作をしたか、創作をしていないか、という区切りであった。


自己矛盾兄貴の居る、クッキー☆の界隈での創作、というと
主に動画を制作したか、制作してないか、という事になるだろう。

制作物である、動画、の部分が、静画(絵)でもOKだったり、
ニコニコに投稿してくてもtwitter上の創作でもセーフ?であったり、
対象物はなんとなく曖昧な感じではあったが、
まあそんな感じの、
公開した創作物の有無、主に創作経験の有無を言っているようだった。


氏は創作者と非創作者を明確に分けたがり、
その両者を、
有産と無産、と言う風に言い表して表現した。


自己矛盾兄貴が自身の方法論、持論を口にする時、
非創作者でありながら、且つ偉そうに口出しする存在への不満
が常に漏れ出ていた。

「無産」という立場で、創作物、創作者を批判する存在を
氏は「イキリ無産」と呼び、
それはそれは忌み嫌っていた。

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当時、自己矛盾兄貴がホスト(放送主)として配信していた
「面会室」という名の番組内でも、
匿名でない状態(自身のアイコンと名前が表示されている状態)で
画面内にコメントを表示させるのは、
氏に認められた「有産」に与えられた特権であり、

そうでない「無産」が同様に、
アイコンを晒して画面上にコメントを残すのは
たいへん迷惑がられており、
苦言という形となって視聴者の「無産」を震え上がらせた。


しかしまあ、
それもそのはず、その面会室という番組自体が
その週のクッキー☆の投稿作や出来事と共に、MAD作者の反応を記録する、という趣旨の下に放送されていた番組だったのだから、
当然と言えば当然の区別であったのかもしれない。

その、放送の趣旨自体の、正当性や必然性を疑問視する声もあるだろうが、
そこは個人の番組なので、
ある程度は自由を認められるべきであろうかと思う。

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そこまで明確に創作者の反応に拘るという事は、
自己矛盾兄貴は
よっぽど「有産」という枠組みを特別視していたのだろうな、

といえばそういうわけでもなさそうで、

氏は

クッキー☆の界隈はどんな内容の物でも自由に創作、投稿ができる場所である。
というような事を常々話していた。

それは表現の規制が緩いという意味でも勿論あるが、
同時に、創作物の質や程度が低かろうが許される
という意味も含まれていた。

そして、それに続く言葉として、

創作のハードルが、地に埋まってるように低いクッキー☆界隈においては
稚拙な作品だろうが投稿すれば誰もが有産なのに、
それすらしない人(無産)には、批判的な感想を言って欲しくない


というような内容のものが続いた。


要するに「有産」が殊更凄いのでなくて、
「無産」がなかなかに凄くないというわけである。

そして「無産」の反応には肯定が望ましく、
否定は望まれていない、という話、

にしか聞こえない。



結局のところ、自己矛盾兄貴の唱えた有産無産の定義は

「有産」の存在に主眼を置いた線引きというよりは
「無産」からの批判を遮断するための結界

のような印象を醸し出していた。

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しかし、
これが自己矛盾兄貴の持論の本性であり、本意である、
と言い切る事にはあまり気が進まない。

氏は面会室をオープンの場で配信する以前、
厳選した極少数の投稿者を集めて、観客を入れずに
クローズドで、面会室に近い内容の会合を開いていたという。

「投稿の有無」にだけ重きを置く人間が、
こういった投稿者の厳選や、サロンごっこを好むだろうか。

結局、上述した氏の有産無産論は、
面会室という番組のためにカスタムされたもので、

会から非投稿者を排除したいが、
それによって生じるであろう横暴な印象を和らげようと
創作のハードルの低さ、という話が付け足されたように思えるが、

ただの筆者の邪推に過ぎないだろうか。


会の参加条件等、
なにか話のとっかかりがなければ、
あまり自身の過激な持論を披露する機会なんてのはないのが普通である。

面会室の運営という必要に迫られたから、
表出したアレコレの主張は、
どこまでが自己矛盾兄貴自身の本心から来る意見だったかは分からない。

無産の定義や、イキリ無産への不満はある程度本心に似通っていても、
有産の中で、どのように他者を認識し、評価していたかについては、
また違う考えがあったのではないだろうか。

投稿した経験があるからという理由で
投稿者をすべて等しく同列視するなんてほうが不自然であるから、
一個の人間として色々な区分けが為されて当然だろうと思うが、
その辺りの考えは、面会室やその他の場所で、明確には披露されなかった。

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このような感じで、

有産と無産だけでなく、無産とイキリ無産という定義も出現し、
この三種の言葉が、曖昧な解釈のまま、
繰り返される氏の主張と共に、
氏の周囲の人間へ、そしてその人間からまた周囲へと
外へ外へとなんとなく広まっていった。


こうした自己矛盾兄貴の唱えた有産無産の線引きに対して、
各々の反応としては、共感や同意もあれば、反感や不満もあったのだろうが

特に目立った批判や反論は現れず、
曖昧に、「有産」や、「無産」達の間に
浸透していった。


つづく(つづいてしまう)

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