エンディングまでなかないひと

12/25に全国書店で発売となる「MOTHERのことば。」、本書にプレイ&チェックチームの一員として微力ながら参加させて頂きました。

公式ページでも触れられていますが、MOTHERシリーズは一般的な書籍の感覚で校正をすると「文法や表現的に変だが、ゲームとして正しい」言葉にまで赤が入ってしまいかねないテキストを多く含んでいます。
その為に本企画の様な異例の対応がされ、縁あってお仕事をさせて頂く運びとなりました。

僕が担当を受け持った範囲は全体のごく一部ですが、その範囲で出来るだけのことはやらせて頂きましたので、ぜひお手に取って頂ければと思います。
早く現物が見たい!



ここからは個人的なMOTHERへの思い入れの話です。
ドチャクソネタバレを含みますので、未プレイの方はご注意ください。



僕が初めてプレイしたのは「MOTHER2ギーグの逆襲(以下MOTHER2)」で、友人から借りたソフト(今は亡きローソンのLoppyで書き換えたカセット)をプレイしたのがきっかけでした。
まだ20世紀、オネット図書館の地図の返却期限を迎える前のことでした。
当時通ってた書道教室の先生がMOTHER2(というか糸井重里氏)のファンで、MOTHER2を始めたと話したら「最後は祈るんだよ!!」と口酸っぱく言われたのをよく覚えています。
牧歌的ながらわりとブラックジョークが利いた世界観にすぐハマり、フォーサイドの停電の時は心臓が飛び出るほどビビったものです(ここでビビりすぎたせいでムーンサイドの印象が薄くなってしまった……)。
そして最後の戦いが始まった時、書道の先生の「祈る」を思い出し、開幕一発目から「いのる」を連発、みんな涙が止まらなくなったりダイヤモンドになったりしてほぼ自滅で惨敗したのを忘れません。
「あっこれタイミング違うのか!」と気付いたのは三回目の挑戦の時でした……。

……と、ここまでがMOTHER2の思い出。
ストーリーへののめり込み具合と言いますか、思い入れはMOTHER2よりもその後に遊んだMOTHERの方が強いのです。


GBA版「MOTHER1+2」が初見のプレイでしたが、初めてMOTHERを遊んだ時のなんとも形容しがたい不気味さ……押し入れの奥を覗くような、日常の陰を見てしまったような気持ちは本作ならではの独特の感触でした。

数あるインパクトを僕にもたらしてくれたMOTHERですが、その中でも特に大きかったエピソードがあります。
初回プレイ時、OP曲「Mother Earth」に合わせて流れるゲームスタート時のストーリーのテキストが一発目から印象深く、そこには過去に起きたジョージとマリアの夫妻を襲った不幸な出来事がつづられています。
特に最後の一文の
「つまのマリアのほうは、とうとうかえってはきませんでした。」
が表示された時の、気持ちの重さは終盤のあの瞬間まで拭い去ることはできませんでした。

ゲーム序盤を乗り越えると夢の世界マジカントへ迷い込み、そこでクイーンマリーなる女性に会い、彼女の国でそれはそれは手厚く歓迎されることとなるのですが、彼女はある「歌」の記憶が思い出せず苦しんでいることを知ります。
その「歌」はプレイヤーが集めているエイトメロディーズのことだろうと結びつけるのはそう難しくはなく、クイーンマリーの記憶を取り戻すのが一つの目的となります。
そして大方のプレイヤーと同じくイヴとの衝撃的な別れを迎えた時、最後のメロディー入手の為クイーンマリーの元へ飛ばされてエイトメロディーズを歌うのですが、当時プレイヤーだった僕は「これでクイーンマリーの力を得てギーグ(最後のボス。2を先にプレイしているので名前は知っていた)を倒す展開になるんだ」程度に考えていました。
しかし迎えていた展開は、その時の自分の予想を超えるものでした。

「そう。そう……このうただった。」

ここから始まるクイーンマリー……ジョージの妻だったマリアの独白。
夫との今生の別れと引き換えに、悪魔のような宇宙人の子供ギーグに精一杯の愛情を注ぐも、歪んでいくギーグを止められなかった無念。
蜃気楼のように消えていく夢の世界マジカント。

「ああ ジョージ! あなたのつまマリアです。
あなたのまつてんごくに、わたしもいまからむかいます……。」



何もかもが消えた跡地に主人公たちがぽつんとたたずんでいた時、その姿と同じように僕の気持ちもそこに取り残されたような気持ちでした。


RPGは構成の都合上、一番のヤマ場は主人公たちに帰結する作り方になりがちだと思いますし、実際構図としては「主人公が強大な敵と戦う最後の動機が揃う」「最後のメロディーが揃う(ギーグを倒すフラグが立つ)」となるのですが、この瞬間のクイーンマリー=マリアが向いている先は主人公やプレイヤーでなく、自分の胸の内でありギーグであり、そしてジョージに対しての語りかけで終わります。
この「もう自分を向いていない」ことにショックを受けたのと同時に、一番初めに流れた一文を思い出し、「会えたのなら、いいな」と呆然としながら思ったのが忘れられません。


僕はこの余韻を引きずったままギーグと最後の戦いを繰り広げ、「うたう」ことでギーグの心の底に芽生えていた何かを揺さぶり、撃退します。
と、ここでGBA版はFC版にはなかった「その後」がエピローグとして流れ、エンディングに入ります。
ここはFC版では諸事情によりカットされた演出が含まれているのですが、失礼ながら初めてそのエンディングを迎えた時「思ってたのと違う」となってしまいました。
演出自体はいいのです。けがを負ったテディはちゃんと回復しますし、子供だけの村イースターに囚われていた大人達が帰ってきますし、なんかずんぐりむっくりなパパが背中だけ見せてくれますし。
(主人公視点のモノローグが入るのはちょっと解釈違いでしたが……。)

GBA版に収録されたMOTHERはその経緯が複雑で、「発売予定だったがお蔵入りとなった海外版」が諸事情で蔵出しされたとの見方が有力だそうです。
もしかするとGBA版のエンディングが糸井氏の狙い通りの姿なのかもしれません。
それでも、クイーンマリーの最期で後頭部を殴られたような衝撃を覚えてしまった僕にとって、その余韻を持っていくエンディングではないと思ってしまいました。

このモヤモヤが拭えなかった僕は、その記憶を引きずったまま何年か過ごし、やがてFC版を手に入れてそちらでも最後までプレイしました。
FC版で流れるエンディングは……ありません。
ギーグが消えた山頂からスタッフロールが流れて終わりです。
スタッフロールにプレイヤー名が出る演出が挿入されますが、言ってしまえばそれだけなのです。
「エンディングまで、泣くんじゃない」のコピーはどうしてしまったんだ! エンディングないぞ! と言う人がいてもおかしくありません。

しかし、そのエンディングを見た時、以前GBA版で拭えなかった違和感がなぜかなくなりました。何もないのに、説明もないのに。
クイーンマリーの最期から引っ張っていた余韻を、ようやく飲み込むことが出来たのです。

舞台裏の事情としては色んな状況が重なった結果の、不完全な姿のエンディングだったのかもしれません。
しかし、少なくとも僕にとっては「FC版の、このエンディングこそがMOTHERだ」とその時思ったのです。


時は流れて2020年夏。
「MOTHERのことば。」のプレイ&チェックチームの公募が始まった時、その時殺人的なスケジュールを抱えていたにもかかわらず応募してしまいました。(原稿作業三本、RTA、ジオラマ、本業の締め切りetc…)
確か自己PR文に「親孝行をさせて頂きたいです。」などと今にして思うとなかなか恥ずかしい言葉を入れてしまった記憶があるのですが、この時の僕はあの時天へ昇っていったクイーンマリーにも向けて、その一言をつづりました。

そんな思い入れを込めつつ手伝わさせて頂いた一冊、手に取って頂ければと思います。



なお、クイーンマリーの最期の展開はプレイヤーごとに思う事が違うかもしれませんが、僕は「切り離された」と解釈しており、今思うと精神的に親離れを演出していたのかなとも考えています。
クイーンマリーと共になんでもしてくれて、いつでも逃げ込める聖域(本当にどこからでも飛べる)であるマジカントとの決別は、プレイヤーを立場的にも精神的にも独り立ちさせる、大きなターニングポイントだったとおもいます。
親子のつながりを題材にしたRPGは多くありましたが、いずれもMOTHERほどの親離れを演出したと感じる作品にはあれからも出会えていません。
MOTHER3の場合は親離れというよりも、それがどんな形であれ「やっと一緒になった」と思えたのが大きくて、こちらはこちらで心に深く刻み込まれました。

今回はほぼMOTHERだけの回顧録となってしまいましたが、そのうちMOTHER2、MOTHER3もがっつり語りたいなと思います。
たまには星をみるひと以外の話も、OKですか?


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