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ただ見てるってこと。

甥っ子がまだ3歳くらいだった時のこと。
私は仕事の関係もあって年に2~3回会う程度のおばさん、でした。
近所に住んでるお嫁ちゃんの妹ちゃんの溺愛に比べたら、おもちゃなんかも買ったりしてないし、かわいいと思ってるけれど、物質的な愛想がなくてすまんねぇと思っていた。
そういう、間柄だった。

ある日、弟家族とうちの両親と私とお嫁ちゃんの家族、みんなで食事に行きましょう、ということになった。そこは弟一家の近所のウナギ屋さんで、子どものいないご夫婦が長年、営んできた仕出しもやっているお店で、夏はハモ、冬はウナギを出していた。
甥っ子の通園路の途中にあって、帰りに彼を見かけると、おばちゃんが声をかけてくれる。エビの炊いたのやら、高野豆腐の炊いたのやら、お取り寄せしたみかんやら、何かとすてきなものをくださるらしく、そういうお付き合いもあって、みんなのお気に入りのお店だった。

肌寒い夕方だった。ちょうど逢魔が時、といわれる頃で、お日さまが沈みかけて日中と夜が少しずつ入れ替わる時間帯だった。
私は母と待ち合わせて、時間より少し早く着くかなという感じでお店に向かっていた。路地中のお店の前にぼんやりと人影が見えていて、あれかなどうかなと話しながら近づいて行ったとき、小さい影がこっちにものすごい勢いで走り出しながら『さとるちゃーん!』と私を呼んだ。

その日のことはとてもはっきり覚えている。甥っ子が、そんなふうに私の名前を呼んだからだ。

隣を歩いていた母が、えー、あんまり会ってないのによくわかったね、と驚いていたが、私だってそうだった。彼が私の名前を憶えていたことにも、ここにいるのが私だってすぐに分かったことにも、こっちに走ってきたことにも驚いた。
まさか、彼が私を憶えているとは思ってなかったから。
あぶない、あぶない、とママが後を追いかけて止めてたけれど、近くに行ったら甥っ子は改めて私にさとるちゃーん、と名前を呼んでくれた。

あれをね、今でも、たまに思い出すのです。
なんのきかっけもないのに、ポーンと思い出す。それで思うのです。
私が彼にできることはなにかな、ちゃんとできてるかなって。

困ったときには全力で助けるぜ、といつも思ってる。
でもそのためには、困ってるってことに私が気がついたり、困ってるんだ、って彼が私に教えてくれることが必要で。
だから、かわいい甥っ子でいろいろやりたい気持ちはあるけれど、ぐっと押さえて押さえてさ、あんまりちょっかいも出さず、余計なことは言わず、できるだけただ、見てるようにしている。
ごはんが美味しいねって言ったり、ゲームを教えてもらったり、いろんな話を聞いたりして彼の世界に触れさせてもらいながら、私はできるだけ、ここで彼を見てる。

同じことを、姪っ子やご近所や友だちのチビたちにも思っている。名前を呼びながら駆けつけてくれたのは甥っ子だったけど、そういう素敵なことが、子どもにはできるって教えてもらったから。
大人になった私にできることは、教えたり枠をつくることじゃなくて、見てるってこと。そして必要な時に、いま手を貸して!って言ってもらえたり、その『今』を察知する人になること。

そう思ってるうちに、私は甥っ子とそんなに接点ないわりには、仲良しになれた(と思ってる)。
そのことを、これからも大事にしていきたいなと年始にも思ったことを、仕事の回答メールを待ちながら、ふと思い出した。
今日はお鍋にする予定。

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