『靴磨きとマリア』感想

 今回は、ナノウさんの初音ミク曲『靴磨きとマリア』について簡単に感想を書いていこうと思います。主に歌詞感想となります。なお、全て個人の意見です。

「今日も朝から路上で
僕の仕事は靴磨き
酒で狂った父親に
貢ぐため

神様は皆平等に
動く心臓をくれたけど
それ以外 何一つ
僕にくれなかった」

いきなり地獄のような歌詞で始まります。神様は皆平等に〜からの歌詞は、同じ作者の『ハロ/ハワユ』、「平等に 残酷に 朝日は登る」という歌詞を思い起こさせます。

「汚れちゃった魂の
殴られて傷だらけの
こんな僕に今更
何か用ですか神様

お守りを差し出して
彼奴が笑ったその顔は
教会で見た聖母様の
絵みたいだった!」

神様は皆平等に〜に続き、「何か用ですか神様」「教会で見た聖母様」と神様を想起させる歌詞が続きます。この歌のような境遇にある子どもが、神様を信じているということが救いにも悲しみにも感じられます。

「だんだん少なくなってきて
ついに彼奴は来なくなった
解ってる 話すのを
きっと止められたんだろ」

ここでマリアが少年と話すのを(おそらく親から)止められた理由が、靴磨きの少年に対する差別的なものかお互いのためにならないと思って止めたのかで、だいぶ話が変わってくると思いますがこの点は明らかにされません。それが自由な解釈が出来るという意味でこの歌の魅力でもあると思います。

「本当はもう分かっていた
嫌いになれない父親も
産まれた時はきっと皆
天使みたいだった!」

この歌詞が、個人的にこの歌の中で一番悲しい歌詞だと思います。少年がもし父親を嫌えたら(それはそれで別の苦しみがあるとは思いますが)どんなに良かっただろうと思いました。「産まれた時はきっと皆天使みたいだった!」そのことに気づいても、少年にとっては救いにはなりません。

「幸福な夢を見た
夢の中で彼奴と二人
手を繋いでゆっくり歩いた
横を見れば満面の笑みで

目が覚めて泣いてしまった
薄汚いベッドの上で
見てはいけない夢だったんだ
もう二度と叶わないのだから 」

こういう夢(起きている間の想像か、寝てみる夢かにかかわらず)を見ること、多分多くの人があると思います。私もありました。いうまでもなく、「薄汚いベッドの上で」が夢の中との美しい対比を産んでいます。

「その日は特に酷かった
どうせまた賭け事で負けたんだ 」

この歌詞を聴くと何回聴いても嫌な予感がして「ああ……」となってしまいます。そしてその予感は当たります。

「ふっと目に入った
僕の首から下げたお守り
「金に変えてくるから寄越せ」と
乱暴に手を伸ばす」

……。

「痺れを切らした父親が
「そのまま死ねよ」と出て行った
折れた指の隙間から
光ったお守り
産まれて初めて勝ち取った
僕の宝物だ」

父親は最後まで少年に寄り添いません。ニコニコ動画では、「父親てめえええ」のようなコメントを多く見ました。ただ、私個人の意見では、私はこの父親に対して怒れませんでした。もちろん少年にしていることは最低で許されないことなのですが、「産まれた時はきっと皆 天使みたいだった!」世界=性善説の中で、この人にもこの人なりの理由があったのではないかと思うからです。そして何よりも、少年自身が父親を嫌いになれない中で、第三者としての自分が「父親てめえええ」みたいなことを言うことは違う、と思ったからです。あくまで個人の意見です。

そして、少年はこれからどうなってしまうのか……このまま死んでしまうのかもしれないし、生き残ったとしても靴磨きの仕事を続けるのは怪我のせいで難しいでしょう。個人的にはこのまま少年は死んでしまったのかな、と思っています。そのほうがまだ救いがあるような気がするので(あくまで物語としては、です。個人の意見です)。

『靴磨きとマリア』の感想でした。ここまでnoteを読んでいただいてありがとうございます。他の記事でもまたお目にかかれますよう。

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