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【アートユニット「ツーバックス」とは何か】

【アートユニット「ツーバックス」とは何か】

瀬嶋貞徳

 「ツーバックス」は大阪在住のコナダと東京在住のキッシーという二人の若き芸術家のユニットの名称である。彼らの芸術活動のスタイルはとてもユニークで次のようなものである。まずそれぞれの街 でそれぞれが「素材」を収集する。そして数カ月に一度、その「素材」をかばんに詰めて集まり、それを使って数時間でもいいから、二人で何か作品を路上で完成させ、それをトラックの荷台に乗せ、 その場で集客し展示するというものである。彼らの活動のユニークさは、まずトラックを「ギャラリー」として使用しているということ、つまり「移動型ギャラリー」という点にある。一般に「ギャラリー」は「移動」させるものではない。人のほうがギャラリーに移動してくるのである。ならば人がいる路上に作品を持ち出して展示してしまえ、いや、ギャラリーごと街に出てしまえ、というのが「ツーバックス」の発想である。
 しかし、彼らは、どこかで制作した完成作品を、ただトラックに積んで街に出ていくというのではない。彼らの活動のもう一つのユニークな点は、作品の制作そのものも路上でおこなうという点にあ る。彼らが路上で作品を制作し「ギャラリー」に展示し、お客を集めて鑑賞していただく、その間、 むしろトラックは「移動」しない。彼らは、まずトラックで街に現われ、場所を決めるとトラックを 止めて「ツーバックス」の旗をたて、そのわきの木陰で作品を制作しはじめるのである。その意味で、 たんに「移動型ギャラリー」というのも違うのであって、「不定型ギャラリー」と言う方がよいかもしれない。しかし彼らの活動を一言で表現することはできないであろう。そもそも彼らの活動を表現する言葉が存在しないのである。彼らの活動のユニークさが、ありきたりの言葉で表現することを許さないのだ。

ひとつの生命体としての「ツーバックス」

 さて、いま述べたように、彼らの活動は素材集めから作品制作、そして展示に至るまで、すべて「路 上(ストリート)」で行われる。なぜ彼らは、そこまで「路上(ストリート)」にこだわるのであろうか。
 トラックを止め、そのわきで路上制作をしている彼らを眺めると、まるで二人で「ランチ」を楽しんでいるように見える。彼らが「食べて」いるのは、二人がそれそれぞれ「路上(ストリート)」で集め、それぞれの「かばん(バック)」に詰めて持ちよった「素材」である。(「二つのかばん」というのが「ツーバックス」という名称の由来だ。)そして彼らが咀嚼し、作品として「昇華(消化)」されたものが、トラックの荷台という「ギャラリー(胃袋)」に展示されていく。つまり、彼らの活動はいわば「ツーバックス」という生命体の生命活動なのである。
 そもそも「生命」とは何であろうか。「生命」はたんなる「物質」とどの様な点が異なるのであろう か。それは、「外」にあるものを「体内」に取り込みつつ「成長」し続けるという点だ。この点にこそ、 「物質」にはない「生命」の特徴がある。
 例えば、横にいる友人の身体はすべてこれまで彼が身体に取り入れたもので出来上がっている。彼が生きている限り、栄養にしろ酸素や水にしろ、彼の「外」にある「素材」を常に体内に取り入れ、 不要なものを排出し続ける。その活動が止まることは生命としての終わり、「彼の死」を意味する。
 さて、彼の生命活動が「外」から取り入れた「素材」によって作り上げていくものは、彼の身体だ けではない。彼が住む部屋を覗いてみよう。いかにも彼らしい部屋になっているはずだ。彼がサッカーファンであればサッカー選手のポスターが貼ってあるだろうし、アニメファンならばアニメグッズ がきれいに並んでいることだろう。それらのグッズや冷蔵庫やエアコン、歯ブラシ一本に至るまで、 その部屋にある「素材」はすべて、もともと部屋の「外」にあったものだ。それが、彼の「生命活動」 によって、「彼の部屋」に取り入れられたのである。それゆえ、彼が引っ越して、部屋に他の生命活動の主体が住み着けば、同じ部屋でも似ても似つかぬ部屋になってしまう。いわば「部屋」はそこに住 む人の生命活動によって作り上げられた「彼の身体」そのものなのだ。
 「ツーバックス」のトラックに展示されている作品のどれ一つとってみても、すべてトラックの「外」 にあった「素材」で出来あがっている。その意味で「ツーバックス」のトラックも、彼らの生命活動によって作り上げられた、彼らの「身体」そのものであり、彼らの芸術活動はまさに、「ツーバックス」 という一つの生命体によって営まれている「生命活動」であると言うことができそうだ。作品を制作 している二人がとても生き生きと楽しそうで、まるでランチを楽しんでいるようにさえ見えるのも、 まさに彼らの活動が「生命活動」そのものだからなのではないだろうか。
 しかし、彼らの活動が「生命活動」であり、「ツーバックス」とは一つの生命体であるとしても、彼 らが「食べる」素材も「路上(ストリート)」で収集する必要はないのではないだろうか。彼らが「食 べた」素材が彼らの作品を作り上げていると言うのであれば、その素材は何でもよく、山や海岸で集めたものでもよいのではないであろうか。

一つの生命体としての「街(路上・ストリート)」

 友人の「部屋」が彼の生命活動によって作られた彼の「身体」そのものであるならば、「ツーバックス」の二人がくり出して「素材」を集めてくる「街(路上・ストリート)」もそこに住む人々の「生命活動」によって作り上げられた、街に集う人々の「身体」そのものであると言ってよいであろう。
 街にあふれている様々なものや、建物、車や電車といった乗り物、店先で売られているものに至るまで、すべてもともと街の「外」にあったものである。「街」はそれを「外」から取り入れ、それを「消費」し成長し変化し続けている。町並みはそこに住む人々の主体が代われば、まったく違う様相を呈するであろう。「街」も一つの生命体なのである。
 だとすれば「街」にとって「路上(ストリート)」はとても重要なものであることになる。「外」から「街」に続く道がなければ、街に必要な「物資(栄養)」が入ってこないし、街の中を張り巡らす道 がなければその「栄養」が「街(身体)」にゆきわたらず、「街」は「死」んでしまう。「ツーバックス」 がこだわる「路上(ストリート)」とは、「街」という生命体の身体の隅々までゆきわたり、その生命体に栄養を行き渡らせている、いわば「血管」の役割を演じている。彼らが作品制作の場として「路上(ストリート)」を選びとっているのは、彼らが「街」を一つの「生命体」と捉え、その「生命体」にとって「路上(ストリート)」が重要なものであることを感じ取り、そのことを示そうとしている らなのではないだろうか。
だとすれば、彼らのが集めてくる「素材」は「街から」でなければならない。確かに「生命」はその生命を維持するために他の「生命」を「食べ」なければならない。大魚は小魚を食べ、小魚はプラ ンクトンを食べる。生命は他の生命の犠牲のうえに成り立っている。生命は生命を食べなければ生き ていけない。「ツーバックス」が「街」から「素材」を集めてくるのは、いわば生命としての彼らが生命としての「街」から栄養をもらい、生命を維持しようとしているからなのである。ならば、彼らの 「素材」は山や草原で集めてきた、本当の生命である草や葉や花でよいのではないであろうか。しかし、それでは意味がない。それらが「生命」であるのは誰でも知っている当たり前のことだからだ。 彼らの活動が示そうとしているのは、「街」が生きているのであり、一つの生命体なのだということ、 「路上(ストリート)」がその血管なのだということなのである。つまり、彼らの芸術活動が示そうとしているのは、「街」が一つの生命体であること、街の「生命性」なのだ。彼らは街の呼吸や血流を感じ取っているのであり、生きている街からエネルギーをもらいみずからも生き続けようとする。そのためには彼らの活動の場を街から離れた「作業場」に置くことは考えられない。彼らの芸術活動の場は、「街」という生命体の体内の「血液」が流れ生きづいている「路上(ストリート)」でなければな らないのである。

「ツーバックス」の活動の「無意味性」

 さて、「ツーバックス」の芸術活動によって見えていくるものが「街」の「生命性」であり、それが 「街」の真実、「街」の「真理」「構造」なのだとすると、彼らの芸術活動はどのような「意味」を持っていることになるだろうか。
 「街」の「生命性」は「街」を構成しているすべての「営み」に行き渡っている。街のオフィスや そこで働く人々、カフェや弁当屋や花屋といった店舗、それら個々の「営み」は、いわば「街」とい う生命体を形成する「細胞」の役割を演じている。それらの諸「細胞」が有機的に関係し合い、全体として「街」という、ひとつの生命体を構成している。
 しかし「ツーバックス」はそれらの「街」のどんな「営み」とも一線を画している。街中に突如現れた彼らのトラックは、訳のわからないもの、「異様な存在」である。(むしろ、その「異様さ」が、 「お客」を引き寄せる。)彼らの活動を「街」に馴染んだ「街の風景」と同列に扱うことはできない。 いったい彼らの活動の「異様さ」は、どこから来るのであろうか。
 「街」の細胞として営まれているどんな活動も「街」という生命体において何らかの「役割」「意味」 を持っている。街の「オフィス」「弁当屋「花屋」「コンビニ」といったどんな「細胞」も何らかの「役割」を持ち、「何か」を営み、それぞれが「街」に存在する「意味」を持っている。
 しかし、街中に登場した「ツーバックス」はその「意味」を持っていない。人々はその「意味」が 分からず、「一体これは何だろう?」とその「意味」を探ろうとして集まってくる。もし、例えばそれが「一風変わった弁当屋」にすぎないことが判明して、集まって来た人がその「意味」を理解し、腑に落ちたとしたら、「ただの弁当屋か」と言って、恐らくその場を立ち去るであろう。しかし、「ツーバックス」の「意味」を理解して立ち去る人はいない。さもなければ、あれは何だったのだろうという疑問を押し殺して立ち去り、みずからが「街」の「営み」を果たすための仕事場に戻るかである。 人々はなぜ「ツーバックス」の「意味」を見出すことができないのだろうか。それは、「ツーバックス」がそもそもはじめから通常の意味での「意味」など持っていないからなのである。彼らの「異様さ」 もその通常の意味での「無意味さ」にあるのだ。
 したがって、彼らの活動が何らかの「意味」をもっとしたら、それは「通常の意味」ではない。もし、「ツーバックス」が「意味」を持っとしたらそれは、「通常ではない意味」である。では、「ツーバ ックス」が持つ「通常ではない意味」とは何であろうか。
 先ほど述べたように「ツーバックス」の活動によって明らかになるのは「街」の「生命性」であり、 「街」の「真理」「構造」そのものである。その「真理」「構造」は街のどんな営みにも行き渡ってお り、どの営みもその「真理」「構造」の下で成り立っている。しかし、そのそれらの「営み」からその 「真理」「構造」を読み取るのは難しい。なぜならそれらの「営み」はそれぞれ固有の「意味」を持っ ており、我々はどうしてもその「意味」に目を向けてしまうからだ。「弁当屋」であれば「どんな弁当を売っているのか」「美味しそうな弁当があるか」「値段がどうか」といった「内容」に目を向けてし まい、「真理」や「構造」といった「形式」は見えてこないのである。
 それゆえ、「形式」に目を向けさせるためには、あえて「内容」を取り除かなければならない。「ツ ーバックス」の営みが「無意味」であるのは、「街」の「真理」「構造」といった「形式」を立ち現わ せるためである。彼らの活動は、それが「無意味」であるところに「意味」があるのだ。つまり、彼 らの芸術活動は、そうした「無意味性」のなかで、「街」の「生命性」を浮き彫りにしようとする営み であり、「街」の「真理」「構造」への「探究」なのである。

「哲学」としての「ツーバックス」

 彼らによれば、「ツーバックス」の作業には「終わりがない」のであり、また「失敗がない」のだそ うだ。それはなぜだろうか。それは、彼らの活動が「街」の「真理」「構造」を追究し続ける「無限の運動」であるからだ。もし仮に、彼らの芸術活動が「有限」なものであるならば、「失敗」があり得ることになるだろう。しかし、もしそれが「終わりがない」無限の活動であるならば、製作のどの地点 も通過点であり、どの地点での作品も、そこから新たな活動が始まる「出発点」なのだから、「失敗」 というものがあり得ない、ということになるだろう。つまり、彼らの作品に「失敗がない」のは、彼らの芸術活動が「終わりがない」「無限の運動」であることを意味している。
 さて彼らの活動は「街」の「真理」「構造」への「探究」であった。ならば、彼らの芸術活動は「真 理」への「無限の探究」であり、したがってその意味では、彼らの芸術活動は、「哲学」的だと言うこ とができるであろう。
 古代ギリシアに始まる「哲学(フィロソフィア)」とは、「知(ソフィア」を「フィロ(愛する)」営 みのことで、「知」を「探究」する活動のことである。その際、「知」とはかならず「真理」について の「知」であり、「虚偽」についいての「知」ではありえない。また、その際の「探究」は「動的」な概念であり、まだ「手に入れていないものを手に入れようとする活動」のことである。それは、いま立っている地点を常に通過点と捉え、それを出発点として、更に「探究」し続けようとする「無限の 探究」のことである。したがって、「街」の「真理」「構造」を「無限」に「探究」し続けようとする
 「ツーバックス」の芸術活動は「哲学」的であることになる。
 彼らの活動は、「静的」「固定」的な活動ではない。コナダは「「雑さ」こそが「路上クオリティー」 である。路上でアクシデントを肯定しながら、動かないとスタイルやルールは決まらない。理屈や文脈で考えるのも面白いが、それでは硬くなってしまう」と述べている。彼らの活動は常に変化し続け る「動的」な活動なのであり、その意味で「哲学的」なのである。
 だとすれば、先ほど述べたように「ツーバックス」の活動をありきたりの言葉で表現できないのも 説明がつくであろう。それは、彼らの活動が「固定的」なものではなく、「動的」な「哲学」的である からだ。彼らの活動は常に変化し続ける「動的」なものであるのだから、既存の「固定的」概念に収 まることがあり得ないのである。

 「ツーバックス」とは何だろうか。それはひとつの「生命体」である。彼らは、それ自体も「生命 体」である「街」の血流に住みつき、その生命力を「体内」に取り入れながら常に「成長」し続ける のだ。そして彼らの活動は「動的」な「哲学」という側面も持っている。彼らの活動は、「街」という ものの「真理」「構造」を明らかにしていく活動でもあるのだ。その意味で「ツーバックス」は「哲学 者」 ユニットであると言える。
 筆者は「ツーバックス」のメンバーのひとり「キッシー」と同時期に同じ病院に入院していた。脳 梗塞を患い、生きる気力も失い絶望していた筆者は「キッシー」の言葉に何度救われたことか。そし て、退院して帰宅してからも、あらためて絶望的な現実を突き付けられ、落ち込んでいたところ、「キッシー」が送ってくれた「ツーバックス」の活動の動画に救われた。励ましてもらった。本当に「キッシー」には何度も救われた。まさに生きる力「生命力」を与えていただいた。ありがとう。
そして、気が付いたらこの文章を書いていた。つまり、この文章も「キッシー」が与えてくれた「生命力」によって生み出されたものなのだ。その意味で、この文章も「ツーバックス」の「生命力」が 生みだしたものであり、彼らの活動の一部であると言うことができるのではないだろうか。


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