【考えごと】嫌な人について考える

最近、嫌な人論が流行っているので、僕も考えてみました。風邪で錯乱してたらすみません。

前にも書きましたが、結論から言うと、僕はこの世に嫌な人っていないと思っています。より正確に言うならば、この世の中に「嫌な人」がいるわけではなくて、自分とある人の間に「嫌な関係」があるだけなんじゃないかなと思っています。

個人的な例ですけど、以前、こんなことがありました。
それは、僕がある部署で仕事をしたときのことなのですが、名刺の作成方法がよく分からなくて、その部署で経理や購買などを担当するアドミンのA子さんに質問にいったのです。

「あのー、すみません、名刺を作りたいんですけど、どうしたらいいですか?」

すると、そのA子さんは視線も返さずに、つんとした口調でこう言いました。

「それ、来週でいいですか。」

僕はそれを聞いて、一瞬、ムカッとしました。なんて嫌な人なんだろうと。もうちょっと言い方があるんじゃないか。でも、しばらくたって、冷静に考え直してみて、こう思いました。「A子さんが嫌な人なのではなくて、おそらく、僕とA子さんの関係がよくないんじゃないかな」と。

その部署には100人ぐらいの人がいます。それに対して、アドミンさんは1人か2人ぐらいしかいません。で、このアドミンさんは普段から、100人もの部員の人から、いちいちくだらないことをあれこれ聞かれているのです。いいかげんうんざりしますよね。「そのぐらい自分で調べろよ」って言いたくなるんじゃないでしょうか。

実際、その後、飲み会の席で、そのA子さんとお話をしてみたら、すごく感じのいい人だったんですよね。つまり、上の場合、僕が嫌な人であるのではなく、A子さんが嫌な人であるわけでもなくて、両者の業務を通しての関係が悪かっただけなんじゃないかなと思うのです。

で、以前いた部署のことを考えてみると、以前いた部署では、アドミンさんが上のような嫌な関係が少しでもなくなるようにいろいろと工夫をしていました。具体的には、部署内での事務処理に関する情報を集めたデータベースを用意して、質問がある場合はまずこちらを見てくださいということにしていました。これが、かなり有効だったようで、僕自身、以前の部署にいた際には、あまりアドミンさんに質問をすることがありませんでした。これは、上の嫌な関係を改善した例ではないかと思います。

話が戻りますが、僕がこの世に嫌な人がいないと思う一番大きな理由は、すべての人から嫌な人だと思われている人はそういないだろうと思うからです。

例えば、僕にとって嫌な人に見えるBさんという人がいたとしましょう。僕からしたら、嫌な人なんだけど、必ずしも他の人からしたらそうではないかもしれません。例えば、Bさんの奥さん、娘さん、飲み仲間、学友、そういう人から見て、Bさんって必ずしも嫌な人ではないんじゃないかなあと思うのです。僕にとって嫌な人であっても、他の人にとって必ずしも嫌な人ではない人は、やっぱり嫌な人じゃないんじゃないかなと思うのです。

別の言い方をすると、嫌な人というのは、悪い人のように絶対的なものではないと思うのです。悪い人というのは絶対的なものですよね。例えば、殺人犯、窃盗犯は悪い人であって、それは私や他の人との関係によって決まるものではありません。それに対して、嫌な人というのは、やっぱりどこかこちら側(判定者側)の主観的な思い込みがあるような気がするんですよね。本当にその人は嫌な人なのかなあと思うのです。

また、上のようなことが正しいとした場合、ある人が相手の人に対して、あの人は嫌な人だと思い込んでいたら、改善できる関係さえもいつまでたっても改善できないような気がするのですよ。だって、関係に問題があるのに、その責任をすべて相手側におっ被せているのだから、いつまでたっても平行線を辿るだけなんじゃないでしょうかね。

この間、「ダーリンは外国人」のトニー・ラズロさんが、「トニー流 幸せを栽培する方法」という本の第1章「『嫌い』は禁止」で嫌いという言葉はなるべく使わない方がいいと書いてました。僕も同感ですね。また、同書で、パートナーの左多里さんがこう書いてました。これも僕は賛成だなあ。

「嫌い」と言ってしまうことで、
「自分はこれ(この人)が嫌いなんだ」と
自覚してしまうような気がする。
口に出すと、この世に
その気持ちが存在してしまうから。
表現をゆるめておいた方が、
その評価を訂正する
余裕があるのかも。
「嫌い」と言わない「だけ」ということに
なる感もありますが・・・
 

(別のブログからの再掲載)

https://ameblo.jp/toraji-com/entry-10038120179.html

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