【写真】私の生家たちとその周辺

画像1 昔この広島市西区南観音一丁目の細い小道の途中に汲み取りで風呂のない古い木造のアパートがあって、私は生まれたときずっとここに住んでいた。 要するにこの細い小道が私が生まれ育ったところです。 このアパートには3年ほどしかいなかったのですが、今でもバキュームカーの臭いが鼻に残る。バキュームカーがこの細い小道に入れず、長いホースを伸ばしていたと記憶する。 このアパートは確か遅くとも私が高校生だった80年代後半にはすでに取り壊されていた。
画像2 このコインランドリーはもともと銭湯で、幼児の頃風呂のない自宅の木造アパートからここまで家族でよく通った。私は乳幼児だったのでその日の気分で男湯にも女湯にも入っていた。入るよ銭湯特有の湯気と匂いに包まれた。私は湯船で泳いでいた。脱衣場には革張りの古いマッサージチェアがあり10円を投入するとしばらく動いた。
画像3 天満川の水道橋。私は太田川放水路と天満川に挟まれた南観音で育ったが、最初のアパートと最後の借家は天満川側にあったのでその頃はよくこちら側で遊んだ。 小さな蟹を採ったり、魚釣りをしていたが、釣れるのはハゼばかりだった。
画像4 ここが私が通っていた幼稚園。 広島は宗教的には浄土真宗が多いらしいのだけど、この幼稚園も浄土真宗のお寺の敷地内にあった。
画像5 新観音橋の舟入側のたもとにある何もない小さな公園。小さい頃父が自動車事故を起こし助手席の母が頭の左側を強打し、当分の間、外科や眼科に通っていた。 小さな私はよく母のお供をしていたのだが、ここを通りかかると、大道芸人みたいな薬売りが怪しげなことを言ってマムシの塗り薬を実演販売していた。
画像6 上のアパートを引っ越して次に住んだのが、この長屋。隣家と壁一枚で繋がっていたが、釜炊きの風呂がついていた。 コークスをナタで割って古新聞に火をつけて風呂を沸かすのが幼稚園児の私の毎晩の仕事だった。 家の前の通路は細く母に古瓶を捨ててくるように言われてにたくさん瓶膝をビニール袋に入れて運んでいたら転倒し瓶が割れて膝を切って大怪我をした。 私が住んだ家は古い借家ばかりで大学時代から27歳まで住んだ杉並区下井草の六畳一間の一戸建てまでの古い借家は全て取り壊された。その中でこの長屋だけが今も残っている。
画像7 幼稚園の頃天満川近くの最初のアパートから太田川放水路側の長屋に引っ越した。左上に見えるのが天満川の水道橋の続きでその先の庚午まで続いている。で、この辺りは土地が低いのでこういった土手で囲まれている。小さい頃からこの土手を段ボール紙で滑って遊んでいた。
画像8 「どっちの料理ショー」などにも出てきた有名な観音ねぎの畑。普通の青ねぎよりやや小ぶりで柔らかくて白髪葱のような苦味はない。食感は青ねぎと細ねぎの間ぐらい。ポン酢やサラダで食べられる。
画像9 川瀬病院。小さい頃風邪を引いたりするといつもこの病院に行ったものだった。待合室で母と一緒に呼び出されるのを待っていると、ようやく呼び出されて、先生の診察が始まる。品のいい白髪の先生が冷たい聴診器を私の小さな胸に当てる。胸がひんやりする。周りを見渡すと歯医者のように瑠璃色や深緑色の小さなガラス瓶とピンセットみたいな細かい金属類が並んでいる。窓ガラスからは明るい日差しが入ってくる。結局ただの風邪なのだが、風邪と判断されると、必ずと言っていいほどガラス製の太い注射を打たれた。その後うちに帰ると夕方まで寝ていた。
画像10 小さい頃バンバンボールやコカコーラのヨーヨーの世界チャンピオンがやってきた酒屋さん。 私もここでそれらを買って大会に出場した。 結局、バンバンボール大会では、競技の最中に泣き出したオカッパの小さい女の子が優勝して、金地に黒字の市販されていない優勝賞品をもらっていた。
画像11 私が通った広島市立南観音小学校。 案外古い校舎で今は耐震補強がされている。
画像12 私が通っていた南観音小学校の正門前にある南観音第二公園。正式名称は今初めて知った。 白い林みたいなものがシュールで懐かしい。これには写っていないが、同じコンクリート製の動物もいる。キリンと象とカバ。私はキリンでよく遊んだ。昔から何も変わらないな。
画像13 小さい頃よく利用した駄菓子屋。 広島の駄菓子屋では広島風お好み焼きも焼いていることが多かった。 と言うより広島風お好み焼きを焼いているお店がついでに駄菓子を置いていただけなのかもしれない。
画像14 小さい頃からよく利用した南観音集会所。 私が書いた「真珠をなくした話」に出てくる「集会所」はこの集会所です。
画像15 手前のマンションみたいな建物が『介護付有料老人ホーム ふじの家観音』で昔はこの敷地内に古い小さな木造の借家が6軒ずつ立ち並んでいた。当時の借家の左から2列目の一番手前が私が住んでいた借家だった。今の建物の左端の茶色い部分の前半あたりにあった。家賃は5万4千円。この借家は狭いながらもブロック塀に囲まれていて通路程度の幅の庭があった。私が上京したあと両親が今の中古住宅を購入して引っ越すとうちだけが取り壊されてその跡は駐車場になった。その後他の人も皆引っ越し、この建物が建って当時の面影はなくなってしまった。
画像16 私が小学5、6年生のときに母がパートで働いていたオンワードの事務所。ここが私が書いたブログ記事「【思い出】私の母は韓国人でしたが、クズではありませんでした。」に出てくるオンワードの倉庫。母はここの搬入口で毎日ハンガーラックなどの什器を押していた。

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