【随筆】差別問題やヘイトスピーチに対するご自分の信念が通じない人へ

心ない人にとって足りないのは知育ではなくて徳育だと思うんですよね。
そういう人はいくら理詰めで論破してもキリがないと思う。
心から凹ませないと反省しないでしょう。それも相手の心を傷つけるのではなくて、相手が自分で気がついて恥ずかしくなるような方に持っていければ一番いい。

私は悩んでいることがあります。
それは長いことTwitterをしていて色んな人のツイートを読んでいて、自分だけものすごくアプローチの仕方が違うなあということです。だから同じようなやり方で協業してくれる人がいないんですね。

私のやり方は自分が正しいと思うことを何十年でもかけても自分自身が実践すること。そこで得られた知見を抽象的な専門用語や理論に置き換えず、誰でもわかる言い方で語ること。私の場合はそれがブログでの短いエッセイや自伝的な掌編小説になって実を結ぶ。ただこれの欠点は時間がかかり過ぎること。

あと具体的な実体験の機会があること、当事者であること、ある程度小説家やエッセイストのような文章力があること、ただし美辞麗句はいらない。実際私にはプロのような文才はない。私の最大の武器は小さい頃からの長期記憶があること。物心ついた頃からのことをほとんど覚えている。何故なら私は小さい頃からそれまでのことを何十年も反芻し続けてきたから。若い頃よく私は他人から「いつまでもノスタルジックな感傷に浸るな」「いちいち過去を振り返るな」と言われた。だが私は自分が間違ってると思ったことは一度もない。過去を感傷的に振り返ることに不思議な手応えがあった。

私が母が在日であることを知ったのは光州事件の2年後ぐらいだ。その頃から在日をキーワードに過去の母や親戚たち、通名の在日らしき同級生との記憶を反芻し始めた。するとそれまで溜め込んだ記憶が面白いほど繋がり始めた。次々と謎が解けてきた。過去を振り返ることは私にとって新鮮な試みだった。

そしてもう一つの天啓は私が日韓ハーフとして比較的早い時期である1971年に生まれたことと父親の方が在日である場合が多い時代に日本人の父の元で日本人として生まれ育ったことだ。
そして気がつくと今年50歳になっていた。頭の中に過去の記憶のストックが大量にありいくらでも文章が書ける。

そして思うことを書いて発表すると、どの立場の人からも反撃的なコメントが返ってこない。ブログの管理画面を観察していると、無言でカウンターの値が伸びていくのが分かる。そしてときどきあまり意識してなかった人から突然「あなたの文章が前から好きで、続きが読みたい」と打ち明けられる。

2年前にある有名な作家の差別的な発言に対して下の反論したとき、1万3千人がいいねを押してくれ、356のコメント、5439のRT、206の引用RTをいただいたが、少なくとも私への反撃的なコメントはほとんどなかった。

その直後に書いたのが、フロントにピン留めしてある以下の文章で、53のコメント、888のRT、52の引用RT、2190のいいねがついています。
当時アメブロの管理画面で観察していると2週間程度でアクセス数が3万2000回を超えていた。
その後の追加分も含めると5万人近くの人が下の文章を読んだのではないか。

さらに上の2つのツイートを連結して書いていたらもっと高い数字になっていただろう。それでもそれに対して反撃する人はほとんどいなかっただろう。

読んだことのない人はこの2つの文章のコメント欄を読んでみてほしい。誰がどんなことを書いているか。根っから意地の悪い反論はほとんど見当たらないんですね。

これが私の理想です。


なお、当時一番驚いたのは、高須克弥先生から真摯なお悔やみのコメントをいただいたことでした。これは本当に驚いた。

逆に残念だったのは高須先生のこのありがたいご好意を無視して、横槍を突くようにこのコメントをネタにして日頃の差別的な発言との矛盾を突いて非難している人たちがいたこと。あなたたちの気持ちもわからないではないが、私はとても残念だった。

いずれにしても、やはりそれらに対して反撃的なコメントをする人はほとんどいなかっただろう。それは何故だろうか。単に私が歳を重ねた日韓ハーフだからだろうか。違うと思う。ほんのちょっとした気持ちの違いではないかと思う。私にはその心得があるが、それを他人に説明、伝授することは出来ない。

ただ一つ言えることは正論や資料では他人を動かすことはできないということだ。
人は動くものであって動かせるものではないからだ。他人を引きずっても仕方がない。本当に共感すればその人は自然についてくる。そのときに初めて話ができるものだと私は信じている。

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