広島の原爆について思うこと

広島に原爆が落ちたとき、父方の祖母は朝っぱらから父をおんぶして父のおしめを洗っていた。
ドーンというすごい音がして広島方面にキノコ雲が上がったそうだ。
その後岩国方面の電車に乗ると途中の広島で皆電車の窓ガラスを閉めたそうだ。腐敗臭が酷かったと。

原爆について個人的な体験を書くと、私自身は広島市の出身なんだけど、父方が呉で母方が山口県なので、原爆でなくなった親族は一人もいないんですよ。だから学生時代に平和教育になると微妙に話の輪に入りにくいところがあった。でも今考えると戦後に他から引っ越してきた人は結構多いんじゃないかな。

若い頃、陜川の被爆者の本を読んだ。うちにあるはずだが行方不明。原爆で亡くなった朝鮮人の死亡者数が町ごとに書いてた。
一番多かったのが舟入でそれ以外はほとんど今の西区だったと思う。己斐、天満、福島、観音。観音新町の埋め立てに従事してた人たちが多く亡くなった。阪神大震災の際の長田地区と同じで貧しい人たちの密集した木造住宅が燃えやすかったのではないか。
日本では一時期チョンガーという言葉が使われていたようだ。ドリフの歌にも出てくるし、ボンカレーもチョンガーカレーになるかも知れなかったそうだ。
広島市西区には在日の人が多い。古くから一族で住んでいた人たちに加えて終戦末期に徴用で連れてこられた若い男性たち。要するにチョンガーだ。
大日本帝国は観音新町の埋め立てを急いでいた。そこに軍事開発拠点を作ろうとしていた。戦後そこは三菱重工の施設と旧広島空港になった。県営グランドは最初の広島球場だ。
小さい頃同級生たちは三菱重工の関係者ばかりだった。高度経済成長期で羽振りがよかった。私の父もその下請けの下請けだった。
観音新町に黄魂彦神社ってある。小さい頃縁日で型抜きとかしたもんだ。これは北隣の南観音に近く観音新町の内陸部にあるが、戦前はこの神社は海に面していた。それを主に徴用の人たちが埋め立てたのがいまの観音新町だ。

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