【社会】被害量と加害量の違いについて

最近、中国の反日運動や日本と韓国との間での竹島(独島)問題で、アジアの外交関係はかなりギクシャクしていますね。

何がいけないのか、何が原因なのか、一言で言うのは難しいと思いますけど、断片的に思うことはいろいろとあります。
なので、機会があれば、少しずつ思うことを書いてみたいと思います。

まず、第1回は「被害量と加害量の違いについて」と題して。

私は生まれてこの方、日本人が在日韓国・朝鮮人に露骨に差別的な態度を取るのを、ほとんど見たことがありません。しかし、その一方で朝鮮学校の女子学生の制服が切られる事件がニュースで報じられたり、ネット上で匿名の嫌がられせを見かけたりすることは少なくありません。
(どうも、日本人に限らず、人間には、「匿名になると横暴になる」、「知り合いの人に比べて、見知らぬ人に対して冷たくなる」という本質的な特徴があるのかもしれません。)

日本に住む在日韓国・朝鮮人に対する日本人の差別について語られるとき、どうも日本人側の加害意識と在日側の被害意識で違いがあるように思います。それはどうしてなのだろうかと考えてみました。

ひとつには、「足を踏まれた人の痛みは踏んだ人には分からない」ということもあるのかもしれませんが、それとは別に、いわゆる少数者に対する差別に限って言えば、差別する側と差別される側の人数比の問題もあるのではないかと思います。

例えば、ある学校のあるクラスでイジメがあるとしますね。で、いじめられている子が1人なのに対して、いじめている子が5人いるとしましょう。で、ある日、そのイジメが明るみになって問題になったとしましょう。その際、いじめられた側といじめた側の間で被害量と加害量についての認識の違いが明らかになるかもしれません。

いじめられた子が「非常にひどいイジメを受けていた」と証言しているのに対して、いじめた子達は「そんなにひどいイジメはしていない」と口をそろえて言うかもしれません。この両者の証言の違いはどこから来るのでしょうか。

私はひとつには、このイジメにおける、「一人当たりの加害量」と「加害者側の加害量の総量」の混同にあるのではないかと思います。

つまり、こういうことです。いじめられた子が受けたイジメの被害量は5人分です。それに対して、いじめた子達の加害量の総量は同じく5人分です。両者はイコールです。しかし、それを1人当たりに換算した場合の両者の比は異なります。何故ならば、いじめられた子の被害量が1人当たり5人分であるのに対して、いじめた子の加害量は1人当たり1人分に過ぎないからです。その両者の比は5倍違うのです。つまり、いじめられた子が5人分いじめられたのに対して、いじめた側は1人しかいじめたつもりがないという訳です。

ですから、いじめられた子が「非常にひどいイジメを受けていた」と証言しているのに対して、いじめた子達は「そんなにひどいイジメはしていない」と口をそろえて言う、というのもありえない話ではないと思うのです。

上のイジメの話は、少数者に対する差別問題においてもいえるのではないでしょうか。

現在の日本人口は約一億三千万人ですが、それに対して在日韓国・朝鮮人の数は約65万人ですね(多少幅があると思いますが)。その比率は実に200:1です。これは、日本国内において、日本人200人に対して、在日韓国・朝鮮人は1人しかいないということです。
これは何を意味しているのかと言うと、例えば、ある日本人が年に1回程度の回数で在日の人に対して失言したとすると、在日の人からすると、場合によっては年に200回の失言を聞く可能性があると言うことです。もちろん、その失言をした日本人側にはそんな意識はないんでしょうけれど。

これは例えば、身体障害者の場合も同じかもしれません。健常者が道を歩いていて、身体障害者とすれ違ったとしますね。その際、健常者からすれば、一瞬目を合わせただけなのかもしれませんが、身体障害者の人からすると、四六時中いろんな人からじろじろと見られているような感覚があるのかもしれません。

そういう意味で、私は、差別問題における被害量と加害量を考える場合には、必ずしも両者の感覚が一致するものではないと考えた方がよいのではないかと思います。

例えば、日本人は、自分がめったに失言をしないからといって、在日の人はめったに失言を聞かないものだとは思わない方がいいでしょう。
また、在日の人は、しばしば日本人による失言を聞くからといって、一人の日本人がしょっちゅう失言をしているとは思わない方がいいでしょう。
また、日本人は、在日の人から指摘を受けた際に、自分がした年に1回の失言を、あたかも年に200回もしたかのように恐縮して、詫びる必要はないでしょう。自分に非があると思ったら、その責任に応じて詫びればよいと思います。

要するに、人間にとって、一番大切なのは、相手の人に対する思いやりだと思います。思いやりとは自己犠牲の同義語ではありません。むしろ、立場の違う相手の人に対する想像力だと思います。

(別のブログの再録)

https://ameblo.jp/toraji-com/entry-10036974535.html

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