【思索】人生を速読する人
昔、僕の友人でAくんという人がいた。
あるとき、彼が自分の特技は速読だと言った。
どんな分厚い本でも30分で読めるのだと。
すると、みんな感心していた。
しかし、僕は疑問に思った。
それで僕は彼に聞いてみた。
「どんな本を読んでるの?」
すると彼は、流行のベストセラー本、特にミステリーや恋愛長編小説の名を上げた。
ああ、なるほどと思った。
個人的な読書体験から言って、分厚い本を30分で読めるわけがない。
可能だとしたら、それは中身のない本を読むときだけだ。
ゲーテは言った。
「近頃の詩人はインクに水をたくさん混ぜる。」
もし、我々がある分厚い本を30分で速読できたとしたら、それはその本が水の混ざったインクで書かれているからに過ぎない。
水を混ぜたインクで書かれた本は、どんなに分厚いものであったとしても、その水分を抜いたら、ただの小冊子に過ぎなくなる。
いや、もしかしたら、紙切れ一枚にもならないかもしれない。
芥川龍之介は言った。
「人生は一行のボードレールにも如かない。」
まして、大抵の長編小説においては。
(僕は長編小説は読まない。)
考えてみれば、アインシュタインの「相対性理論」を速読できる人がいるだろうか。
新約聖書や法句経を、その意味を見落とさないで、速読できる人がいるだろうか。
上のような話をすると、ある人は速読にもそれなりの価値はあると反論するかもしれない。
それはそのとおりだ。
僕はここで速読という「スキル」に価値がないと言っているのではない。
例えば、ある人が公認会計士を目指していて、そのための試験問題を読んだり、会社の経営者が経済情報に目を通したり、英語を習っている人が、長文読解のために、たくさんの英文を読んだりすることはあるだろう。
そういう場合に、速読が出来れば、非常に有益なのは言うまでもない。
そうではなくて、僕が今ここで問題にしているのは、Aくんのような速読が好きな人の「読書傾向」、もっと言えば、「人生の嗜好」についての話だ。
速読が好きな人は、速読しやすい本を選ぶ。
速読しやすい本とは中身のない本だ。
だから、速読が好きな人が選ぶのは中身のない本だ。
余計なお世話かもしれないが、Aくんのような人が、中身のない本ばかりを読んで暮すのは、人の生き方として何かもったいない気がする。
たまには、速読できないような中身が詰まった本、考えさせられるような本を読んだ方がいいのではないか、と僕は思うのだが。
ショーペンハウエルは言った。
「ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく」
それは一理あるが、その多読に選ばれる本が中身のある本であって、考えながら読むのであれば、必ずしも考える力が失われることはない。
つまり、多読それ自体が問題ではない。
ところで、我々が多読をするためには、よほど時間に余裕のある人でもなければ、それらの本を即読せざるを得ない。
その上で言えば、上のショーペンハウエルの提起する問題の本当の原因は、多読ではなく、速読にあるのではないか。
何故ならば、人間は、多読しながら深く考えることは出来るが、速読しながら深く考えることは出来ないからだ。
だから、僕は上の言葉は、以下のように訂正した方が正確であると思う。
「ほとんどまる一日を速読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく」
話を最初に戻すけれども、上の恋愛長編小説などは、もともと時間つぶしを目的として書かれているものだろう。
それなのに、Aくんのように、それを30分で速読してしまうのは、本末転倒のような気がする。
そういう生き方をする人は、結局のところ、彼自身の人生をも速読して過ごしているような気がする。
そうでなければよいのだけれども。
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