【随筆】援助について その1

私は若い頃周囲の人たちの援助が欲しかった。
自分にはやらなければならないことがあるのだが、そのためには人手が足りない、なのに誰も手を貸してくれない、なぜあなたたちは私に手を貸してくれないのか、と思うことがしばしばあった。
(もちろんこちらが正しいと言いたいわけではない。)

被差別階級や貧困層の出身者がいわゆる成り上がりを目指すことがある。そのとき本人がこれは世のため人のためでもあると思うかもしれない。自分が成り上がることで差別や貧困の是正に貢献するのだというわけである。こうなると本人の中で公と私の区別がつかなくなる。それが周囲に助けを求めることを難しくもしているのだ。「私たちに手を貸してください」にはどうしても「私に手を貸してください」が含まれる。そのために周囲に助けを求めない者は一人でその社会問題に取り組まなければならなくなり結果的にうまくいかなくなる。

援助にはいくつかの分類方法がある。
ひとつは公私。公のための援助なのか、私のための援助なのか。
もうひとつはやむを得ないのかどうか。特に緊急性において。急を要しない助けは得られにくい。

私には長年使命感を感じて取り組んでいたことがあった。もちろん義務があるわけでもなく本人が勝手にそう思い込んでいただけの話だが。それをやり遂げるのに結局35年かかった。振り返ってみると、結局いろんな人のお世話にはなったが、自分から援助を申し出たことは一度もなかった。

私の母親は在日韓国人で当時の慣習を押し切って1人で在日社会を飛び出して日本人社会に入ってきた。そして様々な理不尽なことがあっただろうがすべて飲み込んで暮らしていた。息子である私も母が在日だと知らなかった。それに気がついてから私は勝手に母の跡を継ぐことにした。

私は塾に行ってなかったが、自分で学習計画を立てた。全教科勉強していたらエリートには勝てないので教科を数学だけに絞った。教科書で問題集を作り解くことを繰り返した。だから数学だけはよくできた。そして数学科を卒業し外資系IT企業に就職し、プログラミングと英語の読み書きを学んだ。

私には2つの夢があった。ひとつは父親の影響から世の中の役に立つ発明をして特許を取ること。ふたつめはヨイトマケの唄のように母の代わりにやるべきことをやりその成果を母に届けること。なおそれが父親譲りのやり方であればなおよかった。

結局私は今の会社で特許を7件取得した。そのうちの2件はSNS上のヘイトスピーチを分析する手法だった。商業的な事情から表面的な用向きは異なるが。私はそれらの特許で会社から盾をもらった。私はそれを抱えて病床の母に届けた。2枚目を渡した4ヶ月後に母は亡くなった。振り返ると35年が経っていた。

今の私が振り返ると若い頃の自分は何も知らず無駄な苦労をしていた。だからいつも内心で周囲に助けを求めたい気持ちでいっぱいだった。しかし私は結局助けを求めなかった。特に私自身が日本人に近い日韓ハーフであることが災いした。見た目は変わらないのに周囲の日本人たちと心の距離がありすぎた。

中学のときに好きな女の子がいた。彼女にどんな男が好きなのと聞いたら夢を追いかけてる人だと。私は内心喜んだ。しかしその後彼女がサッカー部のキャプテンやバンドのギタリストと付き合っているという話を聞いてがっかりした。ある日私は彼女がギターケースを背負った男子学生と手を繋いで帰宅するのを見送った。しかしその彼女は大変な美人だったのだからこちらも人のことは言えない。

私は東京に出てきて30年になるが、振り返ると私のうちに訪ねてきた人は数人しかいない。私は大学時代一人で下宿にこもり布団を被ってぶつぶつ言っていた。また夜中に一人で散歩した。夜道を歩きながら考えごとばかりしていた。

その大学時代に特許申請をしてみようとしてワープロ専用機を買った。その頃から手書きの書類を特許庁が受け付けなくなったのだ。私は特許書類を書きながら、その合間に今までぶつぶつ言っていたことをワープロで書き始めた。ネットの普及していない時代でいちいち紙に印刷して溜めていた。

https://ameblo.jp/toraji-com/entry-12575943058.html

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