【思い出】台所の母の思い出

我が家の食卓の断片的な記憶を並べる。

母はずっとパートの仕事をしていたが、それと並行して家族のために料理も作っていた。

母は台所の板の間に座り、一袋数十円の大豆もやしを水を張ったボウルに入れると、西田佐知子などを口ずさみながらそれらの大豆もやしの根を一本一本取り除いていた。それが終わると、母は大豆もやしをさっと茹でて胡麻和えにした。考えてみると、私は小さい頃からもやしは大豆もやししか食べた記憶がない。もやしは必ず大豆がついているものだと思っていた。私たちはそれが好きで、母が時間をかけて作ったものをあっという間に食べてしまったが、母は微笑んでいた。

また母は茹でたほうれん草もよく食べさせてくれた。

当時、家族はよく野山までドライブした。広島県と山口県の県境にある小瀬川の河原によく行った。父と私たちが野山や河原で遊んでいると、母は一人で雑木林に入り、わらびを採っていた。そのうち私たちも採り始めた。家族で大袋いっぱいに採って持って帰り、茹でたものをアルミサッシを横にした上に並べて干した。乾いた物をしまって、ときどき水に戻してこれらもまた和え物にした。

あの頃、私のうちの食卓では、大豆もやし、ほうれん草、わらびの和え物がよく食卓に並んでいた。今になって思えば、あれはナムルだったのだろう。40年以上前の当時はそういう言葉を知らなかったが。

また母は山口の実家に帰ると、そこで育てているエゴマの葉を摘んできて醤油や味噌で漬けていた。このエゴマの葉は舌が痺れる感じがして独特の食感だが、これを海苔のようにご飯に巻いて食べるととても美味しいものだ。これがキムチほど日本で流行らないのは不思議なことだ。

また当時の日本社会では珍しかったキムチも食卓に並んだ。
母は私を連れて広島駅南口の東に原爆の被害を逃れて残っていた古い市場で買い物をした。そこで母がキムチを買うと、おばちゃんがビニール袋を手にはめてキムチを掴み取り、そのままビニール袋をひっくり返して包んでくれた。私はそのビニールの裏返しが手品のようで驚いた。
この古い市場は既になくなったが、ここにあった韓国惣菜のお店のひとつは今は移転して白島北町にある。母が亡くなる前、何度かここでキムチやエゴマの葉の漬物を買えたおかげで、亡くなる前の母と本格的なキムチなどで一緒に食事をすることが出来た。大変に助かった。
なお当時の母はキムチを朝鮮漬けとかチンチと呼んでいた。

私たちはよくチシャにご飯を乗せて、酢味噌などを塗って包んで食べた。
今どきの焼肉屋では肉をチシャで巻いて食べたりするが、私たちはこれの代わりにご飯を巻いて食べていた。これもわりと美味しかった。

太田川放水路の最下流近くに住んでいたときには、干潮時に河辺で瀬戸内海特有の大きなガザミが獲れた。父や私がこれを捕って帰ると母は唐辛子とネギで煮込んでくれた。私たちはこれを齧って食べていた。味はよかったが、ガザミは身が少なく食べにくかった。
また潮干狩りをしては浅利を採って砂抜きにしてバターで炒めて食べた。これが何よりも美味しかった。

他にも母はビビンバやケランチムなどを作ってくれたが、作り方が不正確なのかそれほど美味しくなかった。母はケランチムを茶碗蒸しと言っていたが、私はたまに食べるカップの茶碗蒸しと似ても似つかないので首を傾げていた。

それで私はビビンバは美味しくないものだと思っていた。しかし、のちに私一人で伯母の家に泊まりに行った際に、伯母が、今夜はビビンバよ!というので内心がっかりしつつ無理に食べたら大変に美味しかった。私はお代わりした。ビビンバがこんなに美味しいものだとは知らなかった。
(余談だが、数年前に東陽町三丁目で見つけた大野屋さんというクッパとビビンバ専門店のビビンバは伯母のビビンバ以来の美味しさでしばしば利用している。)

あと母は手に水をつけて手のひらに塩を揉み込み日本の海苔に擦り付けてコンロで炙っていた。これはこれで悪くなかったが、伯母は水ではなくごま油で同じことをしていた。伯母の海苔の方が芳ばしくて美味しかった。
しかしこれについてはのちに考え直した。どうも母はニンニクやごま油などの朝鮮料理的な食材や調味料の家での使用を避けていたように思われるからだ。これでは本場の味は出ないだろう。

母は近所のパン屋でパンの耳をもらってくると、細かく切って油で揚げて砂糖をまぶしたものを作ってくれた。これはなかなか美味しいお菓子だった。今ならさらにマーガリンを足してみたい気もする。

母はなまこ酢や小アジの南蛮漬けをよく作った。これは父が好きで父のために作っていた。私は見ているだけであまり食べなかった。なまこ酢はたまに食べた。妙にコリコリしていた。

一方で、私自身は、母には悪いが、マルシンハンバーグやチキンハンバーグ、カップの茶碗蒸しなどの加工製品も好きだった。マルシンハンバーグはマーガリンで炒めたものの上にさらにマーガリンを乗せてそれが溶けないうちに食べるのが好きだったし、チキンハンバーグは焼いてない食パンに乗せてソースをパンに吸わせて食べたりした。

うちは貧しく、豪華な外食などはしたことがなかったが、自宅で焼肉はときどき食べた。父が七輪に火を起こし、台所の板の間に新聞紙を敷いてその上に七輪を据えた。それから家族で七輪を囲んであぐらをかいて焼肉を食べた。
母が焼肉のたれを作り、わりといいカルビ肉を焼いて、ご飯の上に乗せて食べた。ご飯がいくらでも食べられた。

同様にしてみんなで手巻き寿司を作って食べたのも忘れられない。

のちに私が大学進学のために東京に出ると、母は私が会社員になってからも自家製のキムチやエゴマの葉の漬物、スルメや明太のコチュジャン和えを作って送ってくれた。これらがあると当分自宅で食べるのに不自由しなかった。

https://ameblo.jp/toraji-com/entry-12437630613.html

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