【社会】理論と現実の違いについて

理論と現実って両立しないものだなと思います。

例えば、こんなことを考えてみたりします。
もしあなたが学生だったとします。
ある日、先生が学生たちにこう質問したとしましょう。
「きみたちは、テストで100点を取るのと0点を取るのではどちらが簡単だと思いますか。」

それに対して、あなたはなんと言って答えるでしょうか。
もしかしたら、あなたはこう答えるかもしれません。
「先生。100点を取るより0点を取る方が簡単です。何故なら白紙で提出すればよいからです。100点を取るのは難しいですが、0点を取ることは誰でも出来ます。」

しかし、その答えに対して、先生が以下のように問い返してきたら、あなたはなんと言って答えるでしょうか。
「では、次のテストで0点を取ってみてください。」

それに対して、売り言葉に買い言葉で、本当に自分の進級、進学のかかったテストを白紙で提出する学生はまずいないのではないだろうかと思います。少なくとも、私はそんなことをしようとは思いません。私ならば、取れないまでも、100点を取ろうという気持ちでがんばるでしょう。

「テストで100点を取るより0点を取る方が簡単だ」は、理論上は正しいとしても、現実の人間社会においては必ずしも成り立たないようです。何故なら、現実の人間社会というものはそういうところではないからです。

以上のようなことを昔考えてみたことがあるのですが、最近の歴史認識に関する議論を聞いていると、どうもこの学生と同じような考え方の人が少なからずいるように思います。

例えば、昔から、在日韓国・朝鮮人に対して、次のような趣旨のことを言う日本人のひとがいますね。実際、SNSなどでこの趣旨の発言をしている人をときどき見かけますが。

「何故、あなたたち、在日韓国・朝鮮人は、長年日本に住みながら、いつまでたっても日本に帰化しないのか。
また、通名がいやなら、何故、本名を名乗らないのか。
そうできない在日韓国・朝鮮人はみんな日本から出て行ってもらいたい。」

私はそれはなかなか難しいのではないかなと思うのです。少なくとも、かつてはとても難しかったのではないでしょうか。人それぞれの事情があったのだろうと思うのです。
在日ではない私自身、在日の歴史について詳しく語れる知識を持ちませんが、在日である私の母を見てきた経験から言うと、実際にはいろいろあってなかなか難しかったのではないかなと思うのです。母自身は何も語りませんが。

そして、これと同じような立場の人は、在日の人に限らず、世の中に国や民族を超えてたくさんいるのではないかと思うのです。
難民の人、移民の人、強制労働を強いられた人、抑留された人、捨てられた人、ジャングルに迷い込んだ人、現地の人と結婚した人、言葉を忘れた人、棄教・改宗を強いられた人、少数派の人、親を失った人・・・

そして、そういった人たちに対して上のような発言をする人もまた世の中にはたくさんいるのではないかと思うのです。
私は、そういった人を見ると、新約聖書にあるイエスの以下の言葉を思い出すのです。

「あなたたち律法の専門家は不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。」(ルカによる福音書 11-46)

また、古代中国の書である書経によれば、伝説の皇帝、舜は以下のような言葉を残していますね。

「無告を虐げず」

告げるところの無い人を虐げるものではないよという意味です。
今、この文章を読んでいる人の人生において、これらの言葉が多少なりとも参考になればよいですけど。

参考:善いサマリア人(ルカによる福音書10 25-37)

(別のブログから加筆訂正して再掲載) 

https://ameblo.jp/toraji-com/entry-10038321984.html

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