【随筆】僕にはイヤな人がいない

注:この文章のタイトルは「僕にはイヤな人がいない」であって「世の中にはイヤな人はいない」ではありません。
(つまり、以下の内容は主観的なお話であって、客観的なお話ではありません。多分。)

数年前からときどき感じるのですが、僕にはどうも「イヤな人」、つまり、「(僕にとって)嫌いな人」がいないようです。
例えば、僕が数人の知り合いの人たちと飲みに行ったとします。
で、そのうちの誰かが、その場にいない人、例えば、Aさんを指して、「俺はAさんが嫌いだ」と言ったとしますね。で、他の人たちも、「実は俺もAさんが嫌いなんだ」って話になったとしますね。
そういう場合、僕はぽかーんとしてしまったりすることがあります。
どうしてかというと、僕にはAさんという人のどこがイヤなのかよく分からなかったりするので。
上のように言うと、「それは、たまたま、お前とAさんの相性がよかっただけじゃないのか?」と言われるかもしれませんが、別にAさんに限らず、Bさんでも、Cさんでも、大体同じ結果なんです。
僕には身近にイヤな人がいないのです。

食べ物の好みってありますね。好き嫌いというか。
で、それとは別に、人によっては、特に食べられないものってあったりしますね。
「僕はにんじんだけは食べられない」とか「ピーマンだけはダメ」とか。
かの三島由紀夫はカニが駄目だったとか。缶詰はいいけど、あの形状がどうにも駄目だったらしい。
僕にも人並みに好き嫌いはあるのですが、上のようなトラウマ系の食べ物って特にないんですよね。
僕の人間関係もこれに似てるような気がする。僕にも他人に対して、好き嫌いってあると思うんですけど、他の人に比べて、あまり他人に対する好き嫌いが極端ではないみたいです。
その結果として、僕には、「この人だけは絶対にダメ」っていう人がいないんですよ。つまり、「拒絶反応を覚えるような人」がいないんですよ。
(ただ、その反面、この人だけは強烈に大好きだっていう人もそんなにいないかもしれないですけれど。)

Q.どうして、僕にはイヤな人がいないのか?
A.理由が3つあるんじゃないかと、自己分析しています。
ひとつは、小さい頃には、近所にイヤなヤツがたくさんいたんですよね。ジャイアンとかスネ夫みたいなヤツ。
でも、こちらが大きくなるに従って、そういう人っていなくなりました。
おそらく、みんな大人になったからでしょうね。で、これは、誰でも同じ経験があるでしょうね。
ふたつめは、僕は田舎の下町で育ったんですけど、この地元にはすごく口の悪いやつらや喧嘩っ早い連中が多かったんですよ。あとヤンキーも多かった(笑)。
で、僕も中学時代、口喧嘩ばっかりしてました。(でも、お互いに根に持ったりはしないんですよ。次の日にはすっかり忘れてたりして。)
どうも、僕はそういうノリで育ったためか、それ以降、高校とかに行っても、大学に行っても、人間関係において、そんなに他人の言動が気に障るってことがないんですよね。
大学時代、特にそうでしたけど、まわりには上品な人が多くて、イヤな人って、全然いなかったなあ。
おそらく、僕自身、他人からの悪口や陰口の類に免疫が出来ているのかもしれないですね。
みっつめは、これはあまり人に言ったことがないんですけど、僕は10代の頃から、大学を卒業するぐらいまで、いつも考えごとをしてばかりいた時期がありました。
それは哲学的なことであったり、社会的なこと(政治的なこと、歴史的なこと)であったり、いろいろでしたけど、考え込むととまらなくなりました。
高校時代が一番ひどくて、四六時中考え事をしていながら、さらに、布団に入ると毎晩3時間以上考えごとをしないと眠れない人間でした。(大学受験の前日でも!)
で、その考えていたことというのが、ポジティブなことだったらよかったんですけど、実際にはとても暗いことが多かった。イヤな社会問題や歴史問題について考えていたり、イヤな人(身近にいる人ではなくて、歴史上の人物であったり、現役の政治家であったり)のことについて、考えてばかりいたんですな。
しかし、ある時期から、そんなことばかり考えていてもいけないなと思い、ふと身近な世界に目を向けてみて、たまたま、以下のようなことに気が付いたんですよね。
「僕の周りにいる人たちはみんないい人たちばかりじゃないか。」
だって、ヒトラーみたいな人はいないし、新約聖書に出てくるパリサイ派のような人はいないし、政治評論家の某氏や政治家の某氏みたいな人はいないし。
僕の周りにいる人たちはみんないい人たちばかり。僕は友人に恵まれたなあと思うのですよ。だって、誰と付き合っても、全然、イヤな思いをしないですから。
要するに、僕の身近にイヤな人がいないのは、現在の僕のイヤな人の基準が人並みはずれて高いからなのかもしれません。
つまり、僕にとっては、相当にイヤな人でないと、イヤな人のうちにはいらないのですよ。

上の話は、あるいは、「イヤな人」を「犯罪者」に置き換えて考えてみると、分かりやすいかもしれませんね。
例えば、ある人があなたにこう質問したとしましょう。
Q.「あなたの周りに犯罪者はたくさんいると思いますか?そう思いませんか?」
その答えとして、例えば、以下ような2種類の答えがあるかもしれません。
A1.「私の周りには犯罪者がたくさんいます。信号無視をする人、立小便をする人、喫煙場以外で喫煙をする人、財布を拾っても届けない人、駐車違反をする人・・・。世の中は犯罪者だらけです。」
A2.「私の周りには犯罪者は特にいません。新聞を読めば、殺人や強盗の話がいろいろと載っていますが、私は生まれてこの方、殺人犯も強盗も見たことがありません。」
僕なら後者のように答えるでしょうね。
僕の周りにまったく犯罪者がいないように、僕の周りにはイヤな人もまったくいないのですよ。

話は変わりますが、僕には、他人をイヤだなあと感じない反面、他人と付き合っていて気を使うことがあります。
それは、相手の人がこちらの欠点を許容してくれるかなあ、あるいはどこまで、ということについて。

僕が思うに、世の中には、「イヤな人」がいるらしい反面、「他人のイヤな面を受け入れられない人」も案外に多いような気がします。
例えば、世の中には「下品な冗談を言う人」がいますね。その一方で「下品な冗談(を言う人)を受け入れられない人」もいますよね。
で、僕は、前者はわりと平気なんですけど、後者が、(嫌いではないですけど)、けっこう苦手だったりします。
というのは、僕自身、うっかり下品な冗談を言いかねないので。
その人と付き合っていると、自分が下品な冗談を言いはしないかと気を使い、うっかり言ってしまって相手が気を悪くしてしまったら、機嫌を直してもらうためにはどうしたらいいかとあれこれ考えてしまったり。薄氷を踏む思いとはこのことでしょうか。
結局、「(第三者的立場から見て)他人に対して不寛容な人」とは、「他人を許さない(権限をもった)人」ではなくて、「他人を受け入れられない人」、「他人に対して免疫のない人、拒絶反応を覚える人」なんじゃないかな。で、この「他人を受け入れられない人」が自身の正当性を道徳的規範に求めると、本当の意味で「不寛容な人」と呼ばれてしまうのかな。
(ちなみに、僕はこういう人も嫌いではないです。)

そうそう。「好き・嫌い」と「得意・苦手」って話が別ですね。
他人には、「嫌いじゃないんだけど苦手な人(どう付き合ってあげたらよいか分からない人)」や、「嫌いなんだけど得意な人(適当にあしらえる人)」っていますね。
ある他人が苦手だという人の中には、その人を反射的に嫌ってしまうということがあるのかもしれませんね。
おそらく、その人は、「苦手な人」を、「嫌いな人でもある」と位置付け、「嫌いで苦手なこの人は私にとって付き合う価値のない人間」と判断し、切り捨てようとしているのかもしれません。
上のような判断を下すのは簡単なことだけれど、人それぞれいいところもあるだろうから、あまり性急に切り捨ててしまうのはもったいないのではないかなあ。
(と言う僕自身も、かつての悪行超人時代のことをいろいろと反省しているのですが)。
そういう人は、それより先に、自分がその人に対して得意になるにはどうすればいいかを考えた方がいいかもしれないですね。
嫌いな人を好きになるのは難しいかもしれないですけど、嫌いな人に対して得意になるのは、案外簡単なことかもしれないですからね。

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