【原稿】母の一つ上の伯母の思い出。

私の母は末っ子で、祖母は長兄の妻が亡くなり、その孫たちの見舞いで、母が中学の頃、手が離せなかったようだ。

かわりにその母の面倒を見ていたのが母の8歳年上の伯母だった。母の話では、伯母は高校生の頃、小学生だった母たちの服を仕立ててくれていたそうだ。母は高校まで行ったが、叔母は中学までしか行かなかった。

伯母は若い頃に地元の山口の宇部のやはり在日の男性と結婚して母や双子の叔母の面倒を見ていた。

また詳細は触れないが、伯母は若い頃に母とは通名の表記が違っていたようだ。
その後、伯母は地元の宇部の有力な人と結婚して、母を援助をしていた。そして伯母たちの経営する広島の呉市の喫茶店で高校生の母は働いていた。リトル・エヴァの「ロコモーション」やダニー飯田とパラダイスキングの「悲しき60才」がかかるような50年以上前の普通の喫茶店だった。母はこのお店でこれらのシングルレコードをもらってきていて、のちに、私は小さい頃、それをフリスビーにして遊んでいた。

そこで母は工業高校に通う父と知りあった。父は学校をサボってこの喫茶店にコーヒーを飲みにきていたようだ。
二人の結婚には多くの反対があったようだ。そもそも日韓の国交がなかったから。でも反対で取り消されたら私はこの世にいなかった。

小さい頃、この伯母のいとこたちともよく遊んだ。裕福な家庭でゴライオン やザンボット3などの(名称はともかく)超合金のおもちゃをたくさん持っていた。私は歳のあまり変わらないこのいとこにおもちゃを買ってもらっていた。

このいとこはインベーダーゲームを持っていた。50万円ぐらいするそうだ。私はそれで遊んでいた。また、のちに私は寺沢武一先生の「スペースコブラ」や、細野不二彦先生の「さすがの猿飛」のカセットテープをダビングしてもらったり、タミヤ模型のメルカバのプラモデルをもらったりした。

また伯母は私や兄によくおもちゃを買ってくれた。私は小さい頃、伯母に三千円ぐらいするランボルギーニ・カウンタックのプラモデルを買ってもらったことを忘れない。

十数年前に兄が結婚して品川のプリンスホテルで結婚式をしたとき、夫婦で参加してくれた。十分にお礼を言えないまま、その後に亡くなった。母に聞いたところでは胃がんだったそうだ。

葬式で地元の山口に呼ばれた。義伯父になれない高級酒を持参した。伯母は布団に横たわっていた。

葬式で誰だかわからない遠い親戚が私に忠告してくれた。
「朝鮮での葬式では、故人の前でお酒を2回回して飲むのだよ。」

私はそのようにした。

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