3時の貴婦人

   
 
母が急逝したのは、蝉の声が空に響く夏の日事だった。
10年余前の弟の誕生日の翌日だった。慌ただしい葬儀だった。
 葬式には、ぽかんと空白の時間ができる。そんな時間の所在なさに裏庭に出る。
 そこには、古めかしい小屋が、今も残っている。小屋の中には、古い着物が入れてある古箪笥、捨てるにはもったいないと思われる小物、じゃが芋や玉ねぎ、そんなものが雑多に置かれていた。 
 入り口の外側には、苗床があった。小さな緑の幼い葉が、芽を出していた母が植えたのだろうか、葉は、ごはんしゃもじ型だった。私は数本をビニール袋にいれた。自宅に戻っても、深緑の葉の色はそのままだった。生命力に満ちているその植物は、庭の隅で茎を伸ばし、花を咲かせた。1cmに満たない桃紫色の小さい花が、風の強弱に合わせて、揺れる様は、見ていて楽しい。花弁は5枚、地上の星々のようだと感じて切なくなった。
 母はこの花が咲きみだれている様を、誰かの庭でみたのだろうか。今年は自分の庭でたくさん咲いてもらおうと、種をまいたのだろう。母はその花を見ることなく逝ってしまった
 私は自分の庭で、夏になるとその花を眺める。その花は午後に咲く。
「三時の貴婦人というのよ。午後に咲くでしょ」と教えてくれたのは、花好きの知人だ。三時の貴婦人は、こぼれ苗でよく茂る。その花を眺めていると、自然に母の事が思い出される。
 私が2歳半の時、弟たちが生まれた。母は農作業に、双子の弟の世話に、家事に忙しい日常を過ごしていた。
私は、同居の祖母と一緒に寝るようになった。御多分にもれず、嫁と姑のすれ違いが、我が家にも存在していたと思う。
 私は、母とのつながりを感じたのは、祖母の亡くなった後だった。 祖母は、いっぱい私を可愛がってくれた。私はやんちゃだったのだろうか。祖母をいらだたせることも多かった。      
 祖母は、自分の娘と比べ、私の欠点を指摘した。それは、祖母のやり方で、私の性格を責める事で、母を、母のお里を非難しているのだった。
 弟の一人は、小さく生まれ何かと手がかかった。
昔の家は、跡取りが大事、私と下の弟の存在は、いうなれば「枯れ木も山の賑わい」だったような気がする。
 長男が大事なのは、理解できなくもない。 我が家の場合は、正しくても正しくなくても「長男に逆らわない」の暗黙のるーるあったように思う。少なくとも幼い私はその雰囲気を肌で感じていた。
母は下の弟を盲目的に可愛がった。下の弟は、その職種では一応頂点をきわめた後、加速を深めながら転落していった。
 母は弟が調子のいい時は、親戚にも近所にも、弟の事を積極的に話題にあげた。坂道を転がり始めてからは、自分一人でその苦を背負い、相変わらずせっかちに働きながら、その給金を弟に貢いでいたらしい。
 私は、母が亡くなるまで、それらの事は何も知らなかった。母の1周忌が済んでから、それまで隠してきたことが噴出してきた。 「だって、とみが、可愛がらなければ、あの家でまさるを可愛がる人がいなかった」と言ったのは母の姉だった。とみは母の名前、まさるは下の弟の名前だ。
 私が、弟を盲愛した母の姿勢に言及した時の事だった。私の脳裏に幼い日の出来事が、浮かんできた。
その頃は、放課後も小学校の校庭で遊ぶことが出来た。その日も、近所の子供たちと校庭で過ぎしていた。「夕焼け小焼け」のメロディーが流れ、子供らは、一人二人と自宅に戻っていく。
「まさる君が、滑り台から降りてこない」と子供の一人が言って来た。なだめてもすかしても、弟はおりてこない。
「お母ちゃんが迎えに来るまで、帰らん」
滑り台の上で、手すりをしっかりつかみ、だんだん暗くなっていく空を眺めつづける弟。 「お姉ちゃんのおんぶ」の言葉で、降りてきた弟を背負い、家路についた。一年生の私と、4歳の弟、何度も背負い直した。薄暗い道で、誰かが弟を抱え上げてくれた。母だった。 

 私が母から相続したのは、「3時の貴婦人」と「弟」だった。
夏に三時の貴婦人は花を咲かせ、私は今も私より大きくなった弟を背負っている。

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