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感情とアイドル

推しがいないってどういうことなんだろう。中学生のときのわたしは推しがいなくて、自分の身に降りかかる火の粉を払うためだけに勉強し(生き)ていた。そのとき生きていたのは底辺にいる(と感じさせられていた)自分をなんとか保つため、「勉強ができる」ことがオタクで運動ができるわけでもなく地味な自分を唯一引き上げる術だった。

高校に入学して勉強を諦めてからは部活と、その周りの人間関係が生きている意味だった。好きな男の子がアイドルで、好きな子とメールして好きだなと思う返事がくるたびにメールを保護して見返して生きていた。今思えば好きな子の好きな発言が載った雑誌を読み返すジャニオタみたいである。

大学に入学するにあたって、何か新しいことを始めてみたくなった。それがジャニオタだった。興味本位で覗いた世界でときめいた。wink upのページでふわふわの中に寝ている男の子、それが中島健人くんだった。健人くんはラブホリ(ラブホリック)キャラとしてトンチキ王子さまの地位を築きつつあり、当時わたしが凝っていたいわゆる「ゆめかわいい」に馴染むセットで、CANDYというソロ曲を歌っていた。YouTubeにアップされたテレビ画面の録画を何度も何度も見返した。かわいいものを好きだと言うことを恥ずかしいと信じきっていた自分を、家で動画を繰り返し見ることで否定し続けた。中島健人くんはかわいく、かっこよく潔くあること、強烈な信念を持って何かを発信し続けることの強さをわたしに植えつけた。健人くんはわたしの人生初の担当(推し)になった。

それまでもある漫画やアニメに入れ込み、好きなキャラクターができることはあった。それでも、その人物が人生の指針をわたしに見せてくれることはなく、生まれたのはパロディ二次創作の絵と設定だけであった。

今わたしはジャニオタをやりつつKpopのオタクもやっていて、そこで気づいたのが自分は推しに出会うまで感情を持ったことがなかったのかもしれないということである。それまで持っていた感情だと思っていたものは全て欲望で、その欲望がわたしをマイナスの地点からプラスになんとか引き上げるためのものだったように感じるのだ。今はやっとマイナスからゼロ地点にまで来て、ここからどう空に飛べるかというところに立っている気がする。もちろん気がするだけで実際はわからない。でも、好きなひとを好きでいることで自分がしあわせになることを考えられるのはかなりの進歩だと思う。

今ゆめみている来年の韓国でのコンサートも、兵役に行く推し抜きでのカムバックも、もしかしたらないかもしれない。一寸先は闇、明日は我が身。たまに思い出してつらくなる。他人のこととか、自分のしあわせについて考えて意気消沈したり笑ったりなんてこともしかしたらこれまでなかったかもしれない。親が割と深刻な病気になったときも、わたしは受験生だったからかもしれないが怖いと思ったり泣いたりしなかったのを思い出す。推しがわたしを人間にしたと言ったら笑われるかもしれないけれど、うそではなくて本当のことだ。感情をまともに揺さぶってくれるのは今えんくんのダンスとホンビンくんの言葉ばかりで、それらに触れるたび人間として生かされていると感じる。人間として持っているものを自分では動かしきれずに、アイドルに頼ってなんとかやっていて、このままどうするんだろうとぼんやり思うときも出てきた。ただそんなこと考えている暇はなく、アイドルも平等に同じ時間の進む世界にいてその時々を悔いなく好きで、しあわせでいたいのだ。

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