「愛するということ」 エーリッヒ・フロム


人間のもっとも強い欲求は、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。
この目的の達成に全面的に失敗したら、精神に異常をきたすにちがいない。
なぜなら、完全な孤立という恐怖心を克服するには、孤立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるしかない。
そうすれば、外界も消えてしまうからだ。

愛するということ エーリッヒ・フロム


孤立感をなくし、孤独の牢獄から抜け出す方法が、「お祭り」と「セックス」らしい。

そうした目的を達成するひとつの方法が、ありとあらゆる種類の祝祭的興奮状態である。
いわばお祭りの説痴気騒きのようなものだ。これは自己催眠的な先想状態という形をとることもあるし、麻薬の助けを借りることもある。原始的な部族に見られる多くの儀式は、この種の解決法をはっきりと示している。つかのまの高揚状態のなかで、外界は消え失せ、それとともに外界からの孤立感も消える。そうした儀式は共同でおこなわれるので、集団との一体感が加わり、それがこの解決法をいっそう効果的にする。
この祝祭的興奮状態と密接な関係があり、しばしばそのなかに混じっているのが、セックスである。性的絶頂感は、トランス状態やある種の麻薬の効果と似た状態をつくり出す。

セックスによる興奮状態の助けを借りるという解決法は、それとは少しちがう。
セックスは、ある程度、孤立感を克服する自然で正常な方法であり、孤独の問題にたいする部分的な答えである。
しかし、他の方法で孤立感を癒すことのできない人びとが性的絶頂感を追求するのは、酒や麻薬にふけるのとあまりちがわない。そういう人たちにとっては、セックスは孤立の不安から逃れるための唯一の手段であり、結局は孤立感を深めてしまう。
なぜなら、愛のないセックスは、男と女のあいだに横たわる暗い川に、ほんのつかのましか橋をかけないからである。

愛するということ エーリッヒ・フロム


本能にしたがって、色々な人とヤるのは、生殖能力が高い魅力的な異性として見られるが、実際は孤立感を強める。

だから、自分のことを他人と同じくらい愛さないと、
人を愛することなんて不可能。


でも、ナルシシズム的になってはいけない。

フロイトによれば、利己的な人間はナルシシズム傾向が強く、いわば自分の愛を他人から引きあげ、自分に向けている。たしかに利己的な人は他人を愛せないが、同時に、自分のことも愛せないのである。

愛するということ エーリッヒ・フロム


フロイトの言うとおりならば、あらゆる本能的な欲望が抑制されることなくじゅうぶんにみたされれば、精神的な健康と幸福が得られるはずだ。
ところが臨床上の事例がはっきりと示しているように、男であれ女であれ、飽くことのない性的満足に人生を捧げる人は幸福にはなれない。
それどころか、神経症的な葛藤に陥ったり、神経症の症状を呈したりすることすらある。
あらゆる本能的欲求を完全にみたすことは、幸福の基盤でないばかりか、正気をも失わせかねないのである。

愛するということ エーリッヒ・フロム

一時的快楽に溺れることは、その人にとっては良かっても、
あらゆる人の魂を傷つけることに、なる。

現代社会では、誰もが集中に逆らって生きているように見える。
集中力の習得においていちばん重要なステップは、本も読まず、ラジオも聴かず、タバコも吸わず、酒も飲まずに、ひとりでじっとしていられるようになることだ。実際、集中できるということは、ひとりきりでいられるということであり、ひとりでいられるようになることは、人を愛せるようになるための必須条件のひとつである。
もし自分の足で立てないという理由で他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人にはなりうるかもしれないが、ふたりの関係は愛の関係ではない。逆説的ではあるが、ひとりでいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。

愛するということ エーリッヒ・フロム


孤独感に耐えられずに他人を求めるか、自分に矢印を向けて成長するか。


私は、愛する人が、私のためにではなく、その人自身のために、その人なりのやり方で成長していってほしいと願う。
誰かを愛するとき、私はその人と一体感を味わうが、あくまでありのままのその人と一体化するのであって、その人を、私の自由になるようなものにするわけではない。
いうまでもなく、自分が自立していなければ、人を尊重することはできない。
つまり、松葉杖の助けを借りずに自分の足で歩け、誰か他人を支配したり利用したりせずにすむようでなければ、人を尊重することはできない。

愛するということ エーリッヒ・フロム


お互い自由であり、尊重し合い、成長を見守る。

愛に関していえば、重要なのは自分の愛に対する信念である。
つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人の中に愛を生むことができると「信じる」ことである。


愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、これがいちばん大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。

愛するということ エーリッヒ・フロム


愛は技術だと、冒頭に述べられていたが、技術なのだろうか。
技術っていうと、誰もが少しの努力によって簡単に獲得できるもの、というイメージがあるが、(個人的に)

自分を愛すること、人を信じること、自らの信念を持つこと、勇気を持って能動的になること。

それは技術というよりも、日々の鍛錬のような。


ひとりの人を愛するには、愛の種類は違えど、みんなを愛せなくてはならない、らしい。


愛ってめんどくさいな〜〜〜〜〜〜!!!!!!


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