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釣行記-111【一粒の麦】

どうもこんにちわ、久しぶりの釣りです。

2月は毎年、安定的に調子が悪い気がします。ここ10年ばかりを振り返ってみても、激務につぐ激務での過労からの疲弊とか、5年ほど前は溶連菌(確か)の感染、これが全身の激痛や高熱なんかで痛いこと苦しいこともうなりたくないくらいの辛さでした、などなど。これらを経て、2018年なんかは最悪。血圧がバブル期の株価のように190くらいまで舞い上りデッド寸前でした。(ヤブな)ドクからも「このままだと心臓破裂するか脳みそから血が出て死ぬよ、あんた」と突き放された始末。まぁ3年も経っているので仕方ないとはいえ、その当時何をしていたか、とか、今もって全く記憶が無いくらいに具合が悪かったのですよね。よく生きてたよね、おれ。

そして時は流れ2021年、2月前半に重篤な風邪を召してしまいPCR検査を受けてみたり、後半では痛風を発症してしまったりという、なかなかシビれる展開。

シビれる、というか実際、前々回かなんかのヤリイカの影響だと思うのですけれども、肘にも故障が発生したようで、左手の薬指と小指が知覚過敏的な症状を呈し文字通り「シビれ」ておりますし、何より痛風が「痛い」展開。痛い、すごく。正確には痛かった、だけど。

ところで、亡骸について、男性と女性で呼び方が違う、というウワサを聞いたことがあります。なんでも男性は「シタイ」女性は「イタイ」というらしいのですが、これは嘘ですよね、きっと。痛くない女性もいるわけだし。

まぁいいや。そして「イタイ」とはいえ、北方に去らずに、望まれない来客然として長っちりで留まり続ける流氷などが無いように、風邪も痛風も時に誘われ何処かへ、すこし湿り気のある柔らかな西風が泳いでいくように、いずれはどこへともなく去っていく、はず、つまり治癒するわけですよ、多分、あくまでも多分だけど。そうした希望的観測に基づいて自分を振り返ると、風邪は治ったけれど、痛風が治癒した(ように思える)のは発作の時に生じた痛みのみなんですけどね。

そんな虚弱おじさんの復帰第1戦、二悶着くらいあってからのマルイカです。実際丸いのかな?きになるー。

◆マルイカとそれを取り巻くセカイについて思うこと

関東ではケンサキイカの幼体のことを「マルイカ」と呼称しているようですね。ヤリイカのところでも記しましたが、呼子の名物のイカですね、ケンサキイカは。ヤリイカに似てますし、ていうかヤリイカ科ケンサキイカ属らしく、ヤリイカ同様に素晴らしく美味しい。

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こういう感じ。皮剥いでるのかな、これ。きになるー。

そして本題の釣りですが、ていうかマルイカは釣ったことはないのでヤリイカについてですけれども、ヤリイカの釣りは割と素直なものだと感じました。

漁に近い感じというか、小手先の技術でどうにかなるものでもない釣りだと感じました。奇を衒わず、真っ当な道具の選定、船上での仕掛けの扱い方等々、きちんとしたメソッドに則り、ターゲットが居るところで釣りをすれば大抵釣れるんじゃないかと思います。

ヤリイカでは、正体不明かつ出処不明の胡散臭い、コーラ塗ればアフターピル的な働きがある、みたいな極めて嘘くさい「こうした道具立てじゃないと釣れない」とか「こうしないと釣れない」あるいは「そんなんじゃ釣れない」といったような都市伝説というか、釣り界隈にありがち個人的経験を拡大解釈した上に絶対化し場合によっては神格化まで暴走した結果「この釣りではオレを崇拝しろ」みたいなキモすぎる感じの妙な尾ひれが付いた伝承とか変なバイアスとか、ドーナツは0に似てるのでカロリーはゼロみたいなユーモアすらない、そうしたノイズが入り込む余地が少ない釣りだと感じました。ま、ヤリイカは前回が初回でしたので、実際のところはどうか知りません。

一方のマルイカの世界、ざっくり観察しただけですが、こちらは伏魔殿というか、魔窟というかなんというか、釣り具メーカーの奴隷製造工場のようなそんな印象です。

よくよく聞けばそれなりに論拠はあるのかもしれないのですが、聞いた限りでは根拠薄弱な、所謂「必殺技」もしくは「秘訣」といった嘘くさいメソッドが、この道の達人あるいは名人と呼ばれる方々の人数分あるんじゃないの?と思ってしまいます。仕掛けからして直結、ブランコ(ヤリイカでも使う仕掛け)、直ブラ(直結ブランコの意味?なの?)と3つもありますし。曰く「極小のアタリを取るために考えられた仕掛け」らしいです。しかもそれぞれをきっちり使い分けるのではなく、場合によってはその3つをハイブリッドしたキメラみたいな仕掛けもあり得るらしい。どうなってんだ?

さらに「これはやっちゃいけない」というネガティブルールがとても多い模様。それも、一緒に釣っている人に迷惑がかかるから、といった具体的かつ誰でも理解できるシンプルな理由ではなく「それを使うとイカが嫌がる」とかの「おたく、もしかして前世イカだったの?」と聞きたくなるような、「なに?イカと結託してなんかしようとしてる?実は人間じゃなくてイカ?それともイカニンゲンなの?親戚全員イカ?」と邪推してしまいそうな理由。他の釣り同様、例に漏れず、自信たっぷりで自説の優位性を主張する人が多い気がしますのです。ほんとかよ?と。そんなのたまたまじゃないの?と。

と、概観した限りですが、どうもこのセカイに充満してそうな、何者かによって充填された、木天蓼を焚いたような成分を含んでいそうな狂気はカワハギのそれに似ているんじゃないの?と思ったら案の定、カワハギと似た釣りで割合近しい世界観らしいですね。

◆ぼくに属する小さな拘りと偏狭な価値観について

ここでふと思います。釣りに関して「上手」「下手」が兎や角言われたりすることがあります。沢山釣るのが上手い、大きいのを釣るのが上手い、というのは一般的な観念ではないでしょうか。そして下手はその逆、こうした、割合に単純化された善悪二元論的な観念が支配的というか、ポピュラーでわかりやすい判断基準として罷り通っている気がします。まぁ数字で説明できるから悪くはないとも思うけどね。

でも、個人的には、そういう数字は結構どうでもよろしくって、釣りに行って、釣れたらそれは喜ばしきことだと思いますし、釣れなかったとしても反省点なんかを見い出せたのであればそれはむしろ釣れた以上に喜ばしきことだと思っています。塞翁が馬、っちゅーやつでしょうか。

どういうことかと言いますと、釣りの楽しさの一つは、自然がもたらしてくれる謎かけというか、そこに佇んでいる様々な要素を組み合わせることで化学反応にも似た何かを引き起こすこと、つまり釣れるってことですが、そういうことだと思うのです。ジョジョの奇妙な冒険の第五部だったか、彫刻家は、本来あるべきものを削り出す作業をしているだけ、みたいな話。

そのためには仮説を検証しつつ、一つの考え方を確立し、その成果として体系だった知識と経験を得ること、これによりあるべき成果にたどり着く、ってことが大事だと思うのですよ。

よりわかりやすく言うと、でっかい石ひっくり返したらダンゴムシがぞろぞろ出てきた、みたいな感触でしょうか。違うかな。。。情報を総合してやってみたら、キモいんだけど未知の事実を知ることが出来た、そんな一連の作業に楽しみを感じ、喜びを見出しているんですよね。要は知的好奇心の充足と思考のトレーニングだと思います。手先も使うけど、手先はあくまでも手先。思考を実践するためのツールです。

このトレーニングのメルクマールとなるのは勿論釣果ではあります。ただ、「釣れた」というのは一次的というか仮の解答であって、まずはそれを得るために、大げさな言い方ですが叡智と情熱をもって挑むこと、こちらが重要。なので、謎がとけたというか、創意工夫で何かを得ることが出来たならばひとまず一件落着、となり、自分の傾向としてはそれ以上の何かを求めることはあまり無いように思えます。つまり数釣りとか大物は結果としては嬉しいけれど、求むべき成果ではない。その結果を実現することのプライオリティは高くない。最優先事項にはならない。

0が1匹にになることは重要。なぜならゴールに近づいたからであり、ゲームクリアの大きなヒントだからです。次に目指すのは仮の解答たる暫定解の根拠の明確化と、成果に導いたであろう仮説を検証し、その仮説の証明が1匹を数匹にすることなので、そこまで辿り着けばゴールラインは越えた、ということでいいと思うのです。

個人的にはここでゲームセットです。釣りじゃなくてゲームフィッシングをやってる関係上、ね。

こうした思想信条のため、所謂「上手」「下手」に関して思うことは、一般的な概念はMECEではないな、ということ。「上手」な人の定義として、「制約条件の中で適切な行動をとれる人」であると個人的には思っています。

例えば、持っていける道具は限られているわけですし、その日の自身の体調や天候なんかもあるので、寝る前に練り上げた事前の仮説がワークするどころか検証するチャンスすら訪れないことも儘あります。「上手い」人を構成している要素はいくつかあると思います。

まず一つ目、現場ではその手持ちの道具の中で工夫し、持てる戦力を全投入し最適解を炙り出せる能力と技術の開発と運用する能力、それらの材料を持って答えを出すための作業を実践遂行する意欲があることがもう一つ。魚をかけてからは、キャッチまで適切な対応を取ることができることがもう一つ。

この三つの条件を丁寧に運用し、この三点で描ける三角形の中のどこかに存在するはずの適正点を見つけ出せること、これがぼくの考える「上手」な人です。なので、こうした行動様式の埒外にありながら、獲れ高の多寡および大小で「上手」「下手」を判断するのは、少々無理があるというか、違和感を感じるのですね。

なんでこんなことを書くかと言いますと、マルイカ情報を調べていて感じたのが、マルイカの釣りに臨む多くの人は「数釣り」にその成果のゴールを置いているような気がしたからで、そのことに疑問をまず持ったわけです。

当然、大漁という結果は適切なプロセスを経なければ到達出来ない地点であることはある意味においては事実だと思います。でも仕事じゃないんだから、ゴールを決めてそこに最短距離を最速で通ろうとするアプローチっていうのはどうなの?粋なの?知的なの?と、そこに疑問や違和感を感じるのでしょうね、きっと。

しつこいですが、事実情報を総合した仮説を実践の中で構築し、検証作業を経て首尾一貫したロジックを編集すること、そしてそのロジックがワークする際に普遍的と結論付けてもよさそうな事実と、偶然との仕分けを出来たと判断できる地点に辿り着けたとしたら、それが何よりの収穫だと思っているのです。

ですので、状況に応じて適切に行動し、自分の能力の範囲や限界値を拡大する努力を優先するとなると、釣果は付随物になると思うのです。努力、実力と釣果にはミッシングリンクというかなんらかのキャズムが常に固着するかのように存在していて、これまで成果を出していた人が今回もいい結末を迎えることができるとは限らない。商売でやっているのなら当然にそうしたキャズムはあらかじめぶっ潰しておくべきで、無理なのであれば回避ルートを考案しておいて、まずは結果を出す、というのは当たり前ですが、釣りは娯楽です、ぼくにとっては。優先すべきはプロセスです。

どこかへ、ここでは釣果だと思うのですが、ゴールへの向かい方についてのいい話があります。早く辿りつきたいのなら一人で、遠くに行きたいのなら仲間と行け、というのがぼくの周りの商売で言われている鉄則の一つ。これに従うと、釣果一直線な考えは、僕にしてみると付随物への暴走であって、正しくはないように思えます。って「あんたも仕事的な考えやんけ」というツッコミはさておいて、じっくりやって、思慮を重ねた上でゴールに辿り着くというのが趣味との付き合い方として好ましいと思うんですよね、ぼくは。

重複しますけれど、釣りに於ける成功か失敗かの分水嶺たる指標の一つが獲れ高という数値である。これは筋の通った考え方だとは思いますけども、まぁ結果的にそうなってたらいいな、と思うのですね。おまけです、釣果は。身の丈、実力にそぐわない成果は疑問。起きて半畳寝て一畳天下取っても二合半、過ぎたるは猶及ばざるが如し、ってやつでしょうか。

ていうか己の偏屈な理屈にピッタリとフィットしない考え方に釈然とせず反発しそうになって長広舌の屁理屈を丁寧に並べている時点で結構、ていうかだいぶヤバいくらいにやべーっすね、おれ。老化なんだろうなぁ、これは、脳の。まぁいーや。

◆マルイカについてより深く知るための準備

まぁ、我も人なり彼も人なり、ってことで他人はいいとして、今回、ぼくは初挑戦ですが、釣れないよりは釣れた方がいいのは当たり前なのです。でも、マルイカ界からするとパラレルワールドとも言えるような、並存する外界で心静かに、時には血を滾らせることはあったとしても、穏やかな老僧のように暮らしていた自分がその世界の中を覗き込み、飛び込むにあたり、そこに満ち満ちている既存概念というか古くからある価値観をトレースしていくと、漏れなくカワハギ同様の狂気のセカイのマスタードガス的な、プルトニウムたっぷりな感じの毒霧みたいなのに侵されてしまう気がするんですよね。それはちょっと避けたいな、と。死ぬし。

ただ、こちらが「正気の沙汰じゃないな」と思っていても向こうさんは平常運転と感じているでしょうし、「オメーの方が頭おかCぜ」と思うでしょうし、所詮主観なんてものは立場の違いからくる色でしかなく、客観視したところで何が正気で何が狂気なのか、そんなのは多数決で決めることが出来るものではないものなので、そうした極地から見て相互に狂気と感じるセカイは成立していていいものだとは思います。ただ、その対極を許容して、かつその世界にどっぷりとハマるにはそれなりの覚悟や努力が必要なわけですよね。どういうことかというと、覚悟≒例えば高価な道具を揃えたり出費し続けること、努力≒見方によっては正気にも狂気にも見えるゴールに到達するために力を注ぎ続けること、かと思います。

例えば、覚悟の一例はこんな感じでしょうかね。正気であり狂気でもある世界なこちら、ハイスペック群の中で最も高価なものの定価はなんと78,800円。2021年3月の世相でいうとNTTの接待一回分、一人分くらいですね。

まぁ釣り全般に言えることでもありますが、見方、考え方、捉え方によっては釣り人は非常に奴隷的というか、ドM的というか、好きでやってるんだからいいじゃん、って話ではありますけれども、精神的な自由が無い牢獄に自らを追い込んでいる気がするのですね。積極的亀甲縛り希望、みたいな。高い釣り具を持っていて自慢するのって、勤め先のサラリーの高さを自慢するのに相通ずる様な、自分の足に括り付けられている鎖とその先にある鉄球の重さを自慢している様な無様さを感じます。

「みんながやっているから」という多数論証の詭弁を根拠にした「やるべきだ、いや、やらなければいけない」という謎の強迫観念の虜囚となってしまう釣り人。あたかも親族を人質に取られ、明日をも知れぬそれらの命を救うために何の保証も得られ無いままに努力を続ける釣り人。ここでは高価な釣り具を買い続けるという自縄自縛の操り人形に堕してしまう、まずは右腕、次に左脚。。。と言ったような人形化スパイラルに陥いれられ、というか自ら落ち込んで、その木偶の完成とともに不自由と共演する滑稽な、観客の居ない人形劇の主演になってしまう地獄。

そして、結果が伴わないと、ザ・徒労に落ち着くわけですね、結果優先のアプローチだと。自然、この徒労の説明責任を感じ自身に弁明するというか、自身の行動に納得感を与えるために、ゾロアスター教の教義の解釈、善か悪か沢山釣れたかそうでないか、それがまかり通る世界観を盲信してしまう。そんなサイクルにハマってしまうと思うのです。これはよくない気がするんですよね、麻薬みたいだよね、たぶん。キメたことはないけれど。

つらつら書きましたが、まぁ価値観の相違あるいは信仰上の教義の違い、ってやつですかね、一言で済ませるのであれば。ぼくにとってマルイカは初回なので、まずは軽い気持ちで、その気持ちをダイエットさせたもっと軽い覚悟で、それより更に軽い装備で臨んで、そこそこ釣れて楽しかったな、くらいをマルイカには求めております。こうした軽薄短小でペラッペラな考えの釣り人には、技術的練磨やら精神性とか独自の世界観への理解とか信仰心とかを求めないで欲しいなぁ、って感じなんですよね。マルイカの釣りやその世界観に心酔してる人からしたら「とんでもねえ野郎だな」って話かもしれませんけどね。まずは羽根よりも軽くライトな、あたかも埃のように吹けば飛ぶ極めて軽い、存在していることすら怪しいくらいの量子のような光のような人間の魂の重量の様な、そんな軽すぎる気持ちで準備を開始です。

◆準備編

ところで、「軽い」気持ち、ですが、「軽い」の対義語は一般的に言って「重い」だと思います。光-闇、暑さ-寒さ、といったように、両極に分けて物事を考える場合、軽いの対極は重い。では「軽い」ことは果たして良からぬことなのか。どうなのでしょう。

答えは様々でしょうが、かつてギリシャの哲学者であるパルメニデスは軽いことを肯定的、重いことを否定的に考えたそうです。詭弁ではありますが、パルメニデス的にぼくの「軽い」気持ちを解釈すればそれはきっと肯定的なことなのですよね。仕掛けがデタラメでも、あるいはロッドがスロージギングロッドでもそれは肯定的に捉えるべきなのでしょう。軽いノリなので。そして釣れなくても肯定的に考えるべきでしょう。いや、そうか?そうなのか。。。?

が、やっぱりボウズはできれば避けたいので、ヤリイカ同様になるべく感じが近いタックルでやるべくその研究のためにとりあえず専用竿を見に行くことにしました。

うーん。。。こんな竿があるんだ。。。というのが持ってみて、振ってみた最初の印象。似た調子の竿は触ったことはありますし、所有してもいると思いますが、こうした強さのそれは持っておりません。

何より驚かされるのが、この竿、レングスが150cmもありません。146cmとかそんなもん。短小かつ軽快。カワハギ竿以上にへんてこ、フォアグラになるべくして生まれ育てられた、というか改造された鵞鳥のような異形中の異形な竿だと思いました。そして非常に高価に感じました。もし買ったとして、他にどんな釣りに使うのか、あるいは使えるのだろうか、と不思議に思えます。専用はあくまでも専用、ってことなのでしょうか。これまた独善的な考え方ですが、汎用ロッドで難しいと言われる魚を釣るのはかっけーと思うのですが、専用竿を用途以外に使うのはおかしげな感じがするのですよね。

だがしかし、冷静に考えますと、自身の服装を振り返ってみれば、春には春の装いがあるように、夏ならできればTシャツに短パンみたいな軽装を好んでおります。そのタイミングで最適なことをするのがよき選択に包まれる柔らかながら冴えた生き方だとは思います。

それと同じことで、旬には旬の釣りがあり、それに適したものを用意するのは当然といえば当然な気もします。肌寒い4月の朝、メルトンのコートよりは薄手のナイロンのコートの方がふさわしいのであったほうがいいよね、と。でも、そうは言ってもあまり多くモノは持ちたくない、シンプルに暮らしたい。この気持ちを釣りに当てはめると、例えばなのですが、1-3月はマダイやなんらかのイカ、4-5月はシーバスやマルイカ、6-9月はビッグゲーム、10-12月は偶然回ってくる青物、ティップランあるいはカワハギ、みたいに釣りものを固定してしまう。ルーティンにしてしまって、道具もそれしか持たない、というのが解決策の一つな気がします。が、問題はそんなにイカとかマルイカに執着出来るの?おいら、という点、および飽きない?という点です。趣味嗜好および生活様式の変化に伴いファッション性が変わればそれまでの蓄えはゴミみたいになるケースもあり、それを再び釣具で踏襲してしまう愚は犯したくないものです。

今回、マルイカ専用竿に軽い気持ちながらそれなりに真面目に向き合ってみて、悩み、懊悩、煩悶、憂悶、悩乱と、心は千々に乱れそうになるかなぁ、と思いましたが、軽い気持ちですので専用竿は今回もやっぱりスルー、ここは鋼鉄のように強く塵のように軽い気持ちでスルーです。代用可能、と言われているカワハギ竿か、使い慣れた調子が似ているスロージギングロッドでなんとかしてみることにします。

仕掛けですが、当初は本線とスッテの結束部分にビーズがついたリーダーのみを買って、ビーズをもってしてスッテのリーダーと連結することを想定しておりました。が、しかし、船宿に聞くと、ビーズ付きのものは使用しないで欲しいみたいなので、直ブラに近いサイズ感で自作します。そしてスッテはロストしても大丈夫なように大量購入します。

個人的な話がしつこくて恐縮ですが、釣りの楽しさって、プリズムが放つ無限にも感じる光彩のように様々な要素があると思います。そのうちの一つが道具とムダ遣い。マルイカのスッテって一個あたりせいぜいが数百円の前半。10個買ってもオフショアビッグゲームのプラグ半分にすら及びません。なのでここはオトナ買い。15個前後買ってみて、一つずつパッケージから取り出し小さなケースに移し替える作業なんか、ぼく的にもメーカー的にもムダの極みな感じがして、人生をとてつもなく贅沢に使っている陶酔感に浸されます。この陶酔感、後々にしっぺ返しというか、あとから帳尻を合わせないといけなくなるケースが往々にしてあり、今回もおそらくそれでしょうけれど、まずは目先のことだけ考えてみます。あと、重りは50号と60号、不測の自体に備えて80号も一つ用意。こうした隙だらけの装備でまずはチャレンジしてみます。

◆一悶着と一悶着

そんでですね、ここまで書いた前日の夜、痛風の発作が再発?再発というか似たような激痛が発生してまさかの当日キャンセル、と。。情けないしフネに申し訳ない。病院に行ったところ、再発作ではなく、皮膚が化膿してそれに伴う痛みが出た、という診断。皮膚って外傷ないのに化膿ってすんのかな。。。そして無為ではないけれど、じっとして過ごし、ようやく立っているだけであればなんとかなりそうな程度に回復。

わずか1週間の経過の間に、湾口、外房でヒラマサが始まり、外房のイサキは盛りを越え、一方のマルイカはこれから本格化しようという、そんな風に季節は進んでいたようです。そうなるとどうしようかな、マルイカでいいのかな?と。

まず考えたのが、懸念というか心残りというか、前回のホウボウの際に買った包丁が未使用のままですので使いたい。そうなると、切りたい順としてはヒラマサ→イサキ→マルイカ、釣りたい順で言えばイサキ→マルイカ→ヒラマサ、楽しそうな順で言えばヒラマサ→イサキ→マルイカであったため、ヒラマサから検討しますが、人数が集まらず出船できず。ならイサキかなー。

イサキですがまずはこちらをどうぞ。

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「一般的な」食品100gあたりのプリン体含有量です。「え?プリン体?ビールとか魚卵とかに多いんでしょ?オレ、ビール好きじゃないから関係ないなー」といった認識でしたが、魚卵は意外に少なめですね。

レバーは兎も角として、この表を俯瞰するに、プリン体は魚類に多く含まれている傾向が見て取れます。そして、その中でも夢にも見たことがないくらいの異彩を放っているのが「イサキ」と「イサキ白子」。

ていうか「一般的」なの?イサキって。ぼくはかれこれ45年ばかり生きていますが、イサキは食べた記憶がありません。どっかで刺身の盛り合わせとかに潜り込んでいたりしたかもしれませんが、「おぉ、これがイサキか」と意識して食べたことはないんですよね。それに好きな食べ物を聞いて「イサキ」という回答を得たことも今のところはありません。ぼくがおかしいのかしら?イサキはとってもポピュラーな魚なの?ねえ、どうなの?ちなみに釣ったことは一度だけありますが、諸事情あって食べませんでした。

なので調べてみました、イサキについて。

標準和名「イサキ」は磯に棲むことに因んだ「磯魚」(イソキ)、または幼魚の縞に因んだ「班魚」(イサキ)に由来すると云われ、これに「伊佐木」「伊佐幾」という漢字が当てられている。もう一つの漢字「鶏魚」は背鰭の棘条がニワトリの鶏冠に似るためという説があり、これは英名"Chicken grunt"も同じである。
                        ウィキペディアより

とりみたいなもんなんだ。なるほどね。にくもとりにくと同じ様なのかな?とりにくはぶたとか牛に比べてプリン体含有量が多いのでイサキもとりも食べたくはないですが、釣ってはみたい、もう一回くらい。そして何よりアホみたいに釣れている感があります。

イサキはちょっと前までリミットの50匹は余裕、他も入れて大漁中の大漁ですね、こちら。少々遠いですけど。まぁ、おそらく餌釣りなのでしょうが、イサキってTGベイトとサビキが大好きな魚ですので、ジグがダメならかぶら装着で根こそぎ釣ってやりたい。

また、たいそう美味しい魚みたいですね。

釣れても食べても興奮しすぎて、いずれも尿酸値が飛躍的に向上しそうですね。

とりあえず、そうした様々な疑問、イサキが一般的かどうか、とかを解き明かすためにイサキをSLJで狙ってみようと思いました、SLJなのでタックルは一本、リグはジグの他にタイラバみたいなのをいくつか持っていく軽装でチャレンジです。

そして、フネに電話したらこんな問答。
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「まだ乗れますか?」
「あと一人は乗れますよ」
「ルアーでやりたいんですけどいいですか?」
「ルアーは釣れないよ(ていうか餌の人に迷惑なんだけど。。。)」
「(空気読めず)いやいいんです、釣れなくても。釣れるかどうか試したいので。いいですか?」
「いやぁ。。。(空気読めよバーカ)」
「(こちらも面倒で早く電話切りたいので)水深何メートルくらいですか?」
「(ようやく本音で)餌の人ばっかりなんだよね。。。」
「(ようやく気づき)なら空いてる時にまた行きますね」
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サイトにルアー大歓迎、みたいな文言あったんだけどね、はて。。。?そんなわけでマルイカに落ち着きました。前週にドタキャンしちゃったので手土産(焼き菓子)抱えてGOでございます。

◆実釣編

今回はこちらでお世話になります。

釣り座ですが幸か不幸か、めっちゃ水飲んでめっちゃトイレ行くので「幸」それもかなりの「幸」、元旦が一粒万倍だった、くらいの「幸」です。

今回、仲間認識してもらい油断させるべくイカのえんぺらっぽい帽子できました。

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出航です。

まず一箇所目。フネに積んであった投入機にそっといれてあったスッテたち、あたかもワルキューレにヴァルハラへと導かれる戦士たちのように、群青に、桃色に、翠色に、黄金色に、オーロラのように50号の重りに先導されながら鮮烈で可憐な煌めきを発散しつつパラパラと飛び出し水底へ向かっていきます。

そして程なく着底、糸ふけを取り

「さて、釣れるか『はいあげて!』なぁ?え?マジ?ウソでしょ?早くね?」

と、気分的にはこのくらいの瞬殺というかメチャ被せ気味なコール。見切るの早いというか早すぎというか、早すぎと言うよりはむしろ昨日くらいから、もしかすると昨年のバレンタイン・デイの頃には既に「来年のホワイト・デイの一投目は即アゲにしたろ」と予め考えていたのではございませんか?と訝んでしまうくらいのマッハ感での切り上げです。この後も早いことと言ったら筆舌に尽し難いスピード感でした。ベンチャー企業は見倣った方がいいくらいのスピード、スピード、またスピードです。

バスフィッシングなんかで、ポイントを一箇所撃ってすぐに次に向けて走り回りながらいいところを見つけて撃って次、と移動しながらやっていくメソッドを「ラン&ガン」と言いますが、今回、「ガン」すら出来ていないような「ラン&ラン&ガ&ラン」といった形で、およそ2時間経過した時点で、仕掛けが水中にあった時間は20分あったかどうか、くらいに感じる速すぎるかつ徹底的な「ラン」です。

で、肝心のぼくですが、宣言通りこいつでやっておりました。

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そして、イカ特有、なの?ちょっとわかんないけど、なんというかモヤっとした感じの違和感があったので合わせてみたところで再び「はいあげてー」のコール。そして上がってきたスッテには大いなる前進の証がありました。

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げそ、っす。小せえな。。。合わせが強すぎたのか??

この時点では小さいことにしか着目してませんでしたが、総括の段階に入ったころに恐ろしい想像を掻き立てる状況証拠になってしまいます、これ。

また、このげそが教えてくれたのは「青」がいいのではないか?というヒント。青のスッテについてたのでね。そのため、下二つを青で揃えて次に行きます。そして次の流し、鉛で出来たワルキューレをぽいっと投げて、スッテーズを踊らせ始めると「グイッ」と重さが乗ります。明らかになんかがついている感じ。まぁまぁ丁寧に巻き上げてきましたら居ました。

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やっぱ青だったのね。21ssの流行色なのでしょうかね、イカの世界では。でもスルメじゃん、これ。幼体なのでムギイカですね。

ていうか、マルイカ狙いでムギイカかぁ。。まぁこんなの偶然もいいところだよね。黄色いゼラニウムのドライフラワーで編んだカゴに入っているプレゼント、みたいな、交通事故とか運命の恋なんかに近いような偶然。なのでこの後は沈黙。

この時点で3時間経過。ぼくは左舷大ドモだったのですが、右手を見てもそんなに釣れておらず。。。その後も低調で。。。タックルをカワハギ用に変えても何も起こらず。。。

通常であれば、というかやったことがある釣りであればね、「イカがそもそも居ないんじゃないの?」等々疑問がむくむくと湧き上がるのですが、何分初めてでございますので、船長を信じるしかない。が、心なしか怪しいというか、なんとなくそんな感じがしただけなのですが、スタートの掛け声も「はいどうぞ!!」という確信に満ちた声の容貌が回を重ねるごとに変容というか老化していっているような気がして、後半では「はぁいどうぞぉぉぉ」とか「どぉぉぉぞっ」といった様に、なんだか船長自身が俗に言う「気合」を入れてらっしゃった様に感じたのはぼくだけなのでしょうね、きっと。

この後もさっぱり、っす。が、ある流し、アタリ、というアタリではないのですが、なんか違和感がありまくって、あげてみたところ5個付いてるスッテにイカの痕跡がありました。しかも5個全部に。

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まず墨。

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下から、墨、墨、墨、墨、ゲソ。これ、どういうことなんでしょうかね??わからない。。。わからない。。。

ここで一つ閃きます、「もしかすると活性が上がり始めている?のか?」と。その仮説、とまでは言えない乏しい状況証拠に基づいた希望的観測を立証するようなゲソダブルが発生したりします。

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マジなんなの?周りを見ても、たまーにポツリ、といった感じの状況。

そして最後の流し。やはり何も起きません。
「ではこれで上がっていきます。」
とラストコール。なかなか厳しい納竿ですね。。と思ったら、ボソリと追加アナウンス。

「明日は釣れるよ!」

今日にしといてくれよ、あらかじめ!!

総括

・スッテ、青、緑、ピンクあたりの基本色のみだったのですが足りなかったかな?
・仕掛けもオリジナルだったので既製品を使ってみた方がよいかも
・ロッド、5キロ超の魚を悠々上げれるパワーなのでマルイカには強すぎで、そのため脚切れが多かったのでしょうかね?と、思いましたが、よくよく見るとゲソはこちら

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なんたって小さいよね。。そしてイカって、乗る時は口に近い位置にカンナが刺さってる感じがします。触手だけ引っかかって釣れることはないのでは??

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ほら、触手の根本、口付近じゃん?

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ほら、これもそう。ということはですよ、ゲソが付いてたものも根本付近で切れてることが類推されません?ていうことは再度これ見るとですね

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根本でこのサイズって、全体のサイズ感想定すると小さめホタルイカ、くらいのむっちゃ小さいのがアタックしてきてたわけですよね。発情期の雄チワワが雌シベリアンハスキーにアタックするみたいな感じでしょうか。こりゃムリっすねー。
・で、再度マルイカをやるかどうか?もう一回くらいはスッテを整備し直してやってみたいとは思います、変わらずに軽い気持ちで!
・ボウズは回避出来た(の?)ですが、ムギイカ一杯とは。ムギかぁ。。。とぼんやり海を見ていたら思い出しました。

「一粒の麦、地に落ちて死なずばただ一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし」ヨハネ12-24

「一杯の麦イカ、水底に沈み死なずばただ一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし」


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