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その12 信頼できないわたし

 小説のなかの「信頼できない語り手」がとても好きなのだけど、はなから知っていて読んでも叙述トリックにならないのでなかなか見つけられない。まんまと騙されて面白かった本もネタバレになるからおすすめできないので、ひとりでひっそりいいな、と思うしかない。
 昔、恩田陸がエッセイの中で、語り手が白人の警官だと思って読んでいたら途中で黒人であることが分かって世界がひっくり返る、という小説を紹介していてとても面白そうだった。書名はもちろん伏せられていたので、いつかばったり出会ってみたい。
 一人称の「わたし」の善悪や認識がぐらぐらする話も好き。なんとなく「わたし」は真っ当であるという思い込みをもって読み始めるので、だんだん「この人ちょっと変かもしれない」「何かがおかしい」と胡散臭くなってなってくるとぞくぞくする。桐野夏生の『グロテスク』とかこの間読んだばかりのイアン・リード『もう終わりにしよう。』とか。
 昔はなぜ「わたし」が揺らぐんだ、とちょっと裏切られた気すらしていたけど、今は逆にそれが心地よくなった。自分と重なったり、真反対の価値観だったりする主人公の汚い感情や弱さを直視できるようになったからかもしれない。歳とともに「こうあるべき」から解放されていくのは悪いことじゃないなと思う。
 絵本に施された仕掛けも楽しい。この間読んだ落語の絵本『ねこのさら』も最後の1ページは鳥肌ものだった。落語やコントの、始まりに戻ってくるオチが本当に好きなのだけど何か名称はあるのかな?デイヴィッド・ウィーズナーの『漂流物』は文字のない絵本だけれど、視界がどんどん変わっていくのが気持ちいい。
 日常でも、叙述トリックみたいに視界が反転したり、それまで噛み合わなかった話が突然噛み合ったりすることがあって面白い(具体的な例を思い出したいけど思い出せない。例えば冷蔵庫のバナナとか、職場でとった電話とかそのくらい些細なこと)。なんていい人なんだろう、と思っていた人から突然悪意がにじみ出して驚きつつもどこかほっとしたりもする。あの人もわたしも、みんな信頼できない語り手でいい。

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