我々のこれまでの道のりは美しかった。あと一歩だった。
もうピアノをろくに弾かなくなってしまった。
かつてプロになろうとしていたのに。
もう名探偵コナンを読まなくなってしまった。
たぶん70巻くらいで止まっている。
ついに映画すらも観に行かなくなってしまった。
あんなに発売日を楽しみに毎日指折り数えて生きていたのに、Switchのダイパリメイクが3番目のジムくらいで止まっている。
暇な休日はちゃんとあるのに、何故かやる気が全く出てこない。
自分は絶対に大した趣味もないつまらない大人にだけはなるまいと固く誓っていただろうに、就職して1年半ですっかりその辺のお疲れOLに成り下がってしまった。
毎日会社にキレて、週5をギリギリで生き延びて、週末は用事がなければひたすら寝て、たまに銭湯に行ってメンタルを回復する
その繰り返しだ。
高校生の自分が今の自分を見るとひどく絶望し軽蔑するだろうが、これが自分なのだ。
じゃあ今が不幸かと言われると、全然そうでもない。「学生時代は暇で良かったな〜 何の責任も負わず、親のスネかじって金の心配もせずのうのうと暮らせて良かったな〜」とは毎日思うが、多分今の方が楽しい気がしている。
人生のハードルを大幅に下げたからだ。
「自分は他人とは違う、特別な何かを持っているはず」「私にしかできないことがあるはず」「私ならもっとちゃんと続けられるはず」という、数々の「〜なはず」を捨てて、今の自分にできることを一個一個消化していけばいいと、半ば自分に対する諦めかもしれないが、そうやって生きていくことにしたのだ。
そしてそれは自分に対してだけではない。
家族に対してもその時々でハードルを変えれば良いのだと今は思う。
夫はそれはそれは絵が上手くて、並々ならぬ特技だったはずなのに忙しくて最近描いていない。
ずっと洗面台に筆洗いバケツが置かれっぱなしだなあと残念に思うこともあるが、まあ仕方ない。
そのうちまたできる時は来ると信じているから、今できていなくても良いのだ。
映画『花束みたいな恋をした』は、このような「仕方ない」を「仕方ない」で済ませられなかった男女の話である。
主人公の麦は社畜になってプライベートが潰れながらも、「仕事だから」「社会とはそういうもんだ」と現実を受け入れて生きている。
一方絹は社会人になっても趣味をしっかりと続けられていて、職業も趣味に直結した、本当にやりたい仕事を見つけて毎日充実した生活を送っている。
2人は理想と現実の板挟みになって着地点を見いだせず、最終的に別れるわけだが、私も含めて多くの人間は麦に近いだろう。
ヒロインの絹は人生が結構うまい。
就活もろくにやらず彼氏と同棲しちゃうし、かと思えばちゃっかり簿記2級を取って地に足が着いた仕事をできる。つまんなくなったら彼氏のツテで得た人脈でエンタメの会社に転職できちゃう。
それができれば苦労しないのにな、みんな結局こうなれたら一番幸せなんだろうにな…ということを絹はできてしまったのだ。
ファミレスで別れ話をしているラストのシーンで、麦はかつての理想にまみれていた若かりし時代は戻ってこないと泣き、絹は今もなお2人で理想にまみれた暮らしを送りたかったと切望して泣いていたが、一旦リセットしてゼロから今の現実に向き合い、少しずつ現実を理想に近づけていければ良かった。
麦は社会人になっても趣味を続けられている絹に嫌味を言ったりしないで、自分にできる小さな幸せをもっと見つけられていたら良かった。
絹は絹でプライベートが潰れて余裕がなくなっている麦に「息抜きに漫画読めばいいじゃん」などと冷たく突き放さずに、2人の暮らしをほんの少しでも明るくできるように寄り添えていたら良かった。
もっと幸せのハードルを下げられていたら良かったのだ。
やっぱり別れたくない、結婚すれば俺たちきっと上手くいくよと説得した麦に対して絹はこう言い放った。
「またそうやってハードル下げるの?」
「ハードル下げて、こんなもんなのかなって思いながら暮らして、それでいいの?」
下げるよ。
こんなもんなのかなって思いながら暮らすよ。それでいいよ。
人生は長いんだから、多少しんどくてつまんない時期があってもいいよ。
やりたいことを全然できていない今の私にも私なりの幸せがちゃんとある。
近所のオシャレなお茶屋で買った玄米茶がめちゃくちゃ美味しくて毎日作るのが楽しいし、サブスクで課金している花が毎回綺麗だし、週一で通っている銭湯で飲む牛乳は何よりも美味い。
幸せなんて案外些細なものの積み重ねだと思っているし、上述した幸せは去年はもはや何一つなかった。鬱になりすぎて映画の『すみっコぐらし』すらも理解不能、『ラブライブ!』を観ても無感情で、パズドラしかできない麦よりも酷い状態だった。そんな時期もあるのだ。少しずつ余裕が生まれて、できること、やりたいことが増えていって、それをまた2人で共有出来ればいい。
新鮮な花束のような理想を麦と絹は追い求めすぎていた。
「我々のこれまでの道のりは美しかった。あと一歩だった。」
間違いなく美しかった。でもほとんどの人間が、その「あと一歩」を踏み出せず、色んなものを諦めて生きているのだ。
あと一歩が、若い頃には考えられないほどハードルが高く、長い長い道のりの先にあるのだ。だからハードルを下げてゆっくり進んでいくしかない。
大人になるにつれて特別でいられなくなり、もはや普通でいることさえもこんなにも難しい。
かつて自分のアイデンティティであったものたちに今は触れられていなくても、何者にもなれなくても、それでも「それなり」に満足して生きていこうと思いながら、今日も美味しい玄米茶を飲んで寝る。
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