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家訓。馬鹿の定義。

他人を馬鹿にする行為こそ、自身が周りから馬鹿にされる、一番の理由となるよ。

何より、人を掌握するのは、潰し込む力ではない。

深い理解を示すこと。

何より一番難しくて、どんなことより一番易しい選択だ。


その昔、何故かまだ幼少の私に母が教えたこと。

〝他人を悪く思うな。

他人のことが悪く思えるとき、その人は、自分が見えていないものだ。

自分のことがわからないから、他人を悪く思えるのだ。〞

子供の私には難しかったが、

〝悪意が思い込みによるものだ〞というのは、何となく理解した。


以降、大抵の場面において、その母の言葉が根底にあった。

〝他人を一方的に悪いと決め付けてはいけない。

それは個人の思い込みがさせるもので。

自分自身の立場も、全くそれと変わりがない。〞


故に私は、どんなにか悪たれても、

至極単純に解き明かした〝相手の都合(心意)〞を図り、道を譲り退くことが出来た。

私が、他人から見て、不可解なほど、あっさり問題を躱せる背景だ。

拘ることは一切ない。

〝裏を返せば、他人も自分も同様だ〞と信じているから出来てしまう。

拘る点は一つもない。

あるとすればそれは、一つではない解答を同時に見つめること。

善も悪も、表も裏も。光も影も。

両方を吟味している。

光が当たるから影が差す。

光が存在しなければ、影も成し様がなく。

どちらも認めなければ、その事実は説明の仕様がない。

だから私には、片側に振れる主張がない。


いつも、道の真ん中を歩く私だ。


〝どっちだろう?〞

と、人は不思議がる。

〝何を考えているかわからない。〞

と、人は訝しむ。


そもそもが、片側を選ぶつもりがない。

〝世の中には善人も悪人も居ない。

在るのはただ、人間性、それだけで。

それは、多様に選び出されるから。〞


マルチな行動パターンとはけして言えない、

一本筋な私の視界だけが、

一面に平坦で、高低差がない。


故に私は、どこへでも行けるから。

人一人分の、その微かな存在だけで生きながら、

その視野が掬い上げる世界は広い。広過ぎて。

手に負えない、余す人生、それだけど。

私は好きなところへ行けるから。


他人を馬鹿にする行為こそ、自身が周りから馬鹿にされる、一番の理由となるよ。

けして、他人を馬鹿だと決め付けてはいけない。

そんなあなたが、馬鹿にされて終わるだけだ。

馬鹿だと思う、他人の意向を汲めてはじめて、人は更に大きな世界に立つのだから。


民間人が思うほど馬鹿じゃなければいいのだけど。

政治家は、馬鹿の定義に選ばれた人材要員か。


なんて、、、あくまで、言葉遊びでしかない戯れを私は時折、試み弾くだけ。


我が家の家訓における馬鹿の定義は、双方釣り合うのだから。

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