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私とラジオのおつきあい 第5回

いつの間にか連載と化してしまっている「私とラジオのおつきあい」。
この連載はマガジン化しておりますので、よろしければ全ての回をお読みください。
第5回の今回は、1984年頃以降のことを書こうと思います。この回から駆け足気味に行きますので、よろしくお願いします。

受験勉強のお供としてのラジオ

1984年は私が高校3年生という年になり、遅ればせながら具体的にどこの大学に進学しようかと考え始めた時期でもある。
私は都内の私立高校に通っていたのだが、2年半ほどの米国生活を除いてはずっと都内で暮らしていたこともあり、大学のときぐらいは東京以外で生活してみたいと思っていた。そんな中、高校在学中に友人と、また学校の行事で行った北海道に強い憧れを持ち、北海道の大学に行こうと決め、受験勉強をすることにした。
翌年には北海道で生活していることをイメージするため、聴くラジオは北海道のHBCラジオかSTVラジオが多くなった。

普段は学校から16時頃に帰ってきていたので、楽しみにしていたのはHBCラジオの「ベストテンほっかいどう」であった。
え?東京から札幌のラジオ放送を夕方から聴けたの?と思われるかもしれないが、秋口から春にかけては、都内でも夕方からHBCラジオが良好に聴けるようになっていたのである。
当時の番組進行は田中徳志郎さん。ラジオ向きの軽快な声で、とても好感の持てる方だった。平日毎日発表されるベストテンのランキングは、最新のアイドルポップ、J-Pop的なもの(ちなみにこの頃はJ-Popという言葉はなかったが)、演歌といった具合に、色んなジャンルの曲がランクインしていたからか、すごく公正に決められているなという印象を持ったものだ。もしかしたら有線放送のリクエスト数もランキングの要素に入っていたからだと思っている。
また、旭川出身の安全地帯や青森県出身の吉幾三のような、地元に近い歌手が他の番組よりも上位にランクされていたような気がする。これはこれで「地元色」が出て興味深かった。

そんな理由だからかもしれないが、私は「ベストテンほっかいどう」が北海道から寒い空気と一緒に電波を届けてきているのではないかとさえ感じることができ、ますます北海道に行きたい気持ちを強めることになったのだ。
残念ながらこの年の受験は失敗。夢を諦めずに浪人生活に入ることとなったのである。

ラジオ初出演と大学受験

予備校生となり、通う学校と勉強の内容は変わったものの、ラジオ人生はあまり変わらない日々が続いた。夏の夕方はTBSラジオの若山弦蔵の番組、夜は相変わらずコサキンや所ジョージの「進め!おもしろバホバホ隊」など、地元の放送がメインとなっていた。
秋口になり、夕方にHBCラジオで「ベストテンほっかいどう」が聴こえるようになって来た時は嬉しかった。ただ、パーソナリティは田中徳志郎さんから後輩の鎌田強さんに交代していた。鎌田アナは徳志郎さんと比べると物腰がソフトな語り口、という感じでちょっとタイプが違うなと思ったものである。とは言え、平日夕方にHBCラジオを聴く日々が始まった。

そして1986年1月24日の金曜日、共通一次試験の前日のこと。北海道の国公立大学を目指していた私にとっての第一関門前日、いつものように「ベストテンほっかいどう」を聴きながら勉強をしていた私は、ふとしたことからこの番組恒例の「ランキングシャウト」というコーナーに電話をしてみた。
この「ランキングシャウト」とは、ランキングの一部の順位(どの順位かは忘れてしまった)を生電話で出演したリスナーが当てるというもので、もし当たればシングルレコードがもらえるというものだった。以前にも徳志郎さんの「電話、スタート!」の掛け声とともに何度か電話をかけたことがあったが、必ず話中の音が聞こえてきてつながった試しがなかった。私は勝手に、東京からだと地元と比べて電話がつながるのに時間がかかるからつながらないのだと思っていた。(実際にそういう理由だったのかもしれない)
ところがこの日に限っては、普通に呼び出し音が鳴りオペレータの女性が電話に出るという奇跡が起こったのだ。
入学試験の前日にラジオ初出演。受験前日でもともと緊張感が増していたからか、鎌田アナと何を話したのか、ほとんど覚えていない。「明日共通一次なんです」みたいなことを言ったこと、ランキングシャウトでシブがき隊の「スシ食いねえ!」をシャウトしたけど外れたこと、くらいしか記憶にない。
かくして私のラジオ初出演は終了。翌日の共通一次ではまずまずの点数を挙げたものの、その勢いでちょっとランクを上げて受験に臨み失敗。私の大学生活は北海道ではなく群馬県で始まることになったのである。

群馬県でのラジオ生活

北海道に行く夢は絶たれ、北海道に縁はなかったのだと悟った私は、とりあえず大学時代だけでも一人暮らしをしたいという夢はかろうじて叶え、群馬県での一人生活が始まった。
当時のラジオ生活はあまり大きな楽しみはなかった。群馬県は東京から100kmほど北に位置しているのだが、HBCラジオもあまり良い受信状態で聴くことが出来ず、またその頃、時代の波に乗って世界中のいろいろな音楽が日本で紹介されるようになってきたため音楽鑑賞が生活の中心となった。
当時よく聴いていた番組はコサキンくらいで、ラジオ生活という点では私にとって不毛の時代、ということができる。

就職、Radiko前夜

1990年3月に大学を卒業し、4月からメーカー勤務となった。
「私とラジオのおつきあい 第3回」でもご紹介したBCLラジオ「クーガー2200」は、就職にあたりアパートを引き上げる際、母親が住む兵庫県に送ってしまい、手元にBCLができるラジオはなくなってしまった。その代わりCDラジカセを購入。
コサキンは1993年に結婚するまでは聴いていたが、それ以降はなかなか深夜にこっそり聴くというわけにも行かず、ラジオとは疎遠の生活が続いた。
もちろんラジオが嫌いになったわけではなく、家族と車の中などでラジオを聴くことは増えたものの、あくまでBGMで流す程度、という感じであった。
結婚後、引っ越しはしているが千葉県船橋市在住となっているので、当時聴いていた番組は、やはり週末午後のFM放送、例えばJ-WAVEの「TOKIO HOT 100」とか、千葉のBAY-FMの「パワカン」(POWER COUNTDOWN JAPAN HOT 30」のようなものになった。

2008年ころ、TBSラジオの「爆笑問題カーボーイ」を時々聴き始めるようになった。爆笑問題は出始めの頃から結構好きだったので、彼らの深夜放送を聴きたくなるのは自然の成り行きだったのかもしれない。
「爆笑問題カーボーイ」、今でも毎週聴いている。


連載第5回目はいかがでしたでしょうか。
この間、特に結婚してからラジオの聴き方が大きく変わってしまったため、1990年代以降はかなり駆け足になってしまいました。
さて、次回は多分最終回です。2010年から始まった、ラジオ好きにとって今でも最強のアプリ、登場です。

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それでは。


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