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私とラジオのおつきあい 第1回

今日は私の人生におけるラジオについて書こうと思う。

「人生におけるラジオ」って大げさな書き方になってしまったけど、少なくとも1976年、私が小学4年生の時から45年ほどはずっとラジオとおつきあいしてきているので、決して大げさな話ではない。
長い話になると思うので、何回かに分けて書いていこうと思う。
まず第1回目は、1976年から1977年頃のお話。

ラジオを聴くようになったきっかけ

私がラジオを聴くきっかけになったのは、ラジオでベストテン番組を聴きたかったからだ。
私はもともと歌謡曲が大好きで、テレビではNETテレビ (現・テレビ朝日) で「ベスト30歌謡曲」と日本テレビの「NTV紅白歌のベストテン」の2つの番組が放映されていた。
「ベスト30歌謡曲」は水曜日。「紅白歌のベストテン」は月曜日。ということで、他の日はあまり歌謡曲に触れる機会がなかったのだ。
昭和40年代にテレビが複数台ある一般家庭などほとんどなかったので、家族で一番年下だった私にチャンネル権などあるはずもない。歌謡曲を聴くためにどうしようかと考えた挙句行き着いた答えが「一人でラジオを聴く」ということであった。

ちょうど私の誕生日が近づいていたので、私は両親にラジオを誕生日プレゼントで買ってほしいとおねだりをした。そこで、近所の電器屋さんで買ってもらったのが、ナショナルのRF-508というラジオであった。

ナショナルのRF-508
(https://www.ebay.com/itm/233491714523から引用)

当時で7000円くらいしたから、小学4年生が持つにはちょっとした贅沢品だったと思う。私はこのラジオを本当に、本当に大事にした。
(余談だが、このラジオは006Pという、四角い9Vの積層乾電池で稼働したのだが、これは上述の電器屋さんにしか売っておらず、また200円と高く、うっかりラジオをつけたまま寝てしまい電池がなくなってしまったときは本当に悲しかったことを覚えている。)

ラジオでベストテン番組に夢中

さて自分のラジオを手にしたトミー少年。週末のラジオ番組ではたくさんのベストテン番組が放送されていた。特に日曜日はベストテンパラダイスと言ってもよいほどであった。

まずは朝8時5分から9時までがTBSラジオの「森田公一の青春ベストテン」。TBSアナウンサーの小島一慶と作曲家の森田公一による55分番組。軽快な小島一慶の進行と、少しボソボソ気味に話すけど結構いろんなことを知ってる森田公一のコンビは楽しかった。
9時から10時は、ニッポン放送の「不二家歌謡ベストテン」。司会のロイ・ジェームスの、ちょっとだけ英語訛りのトークで進行されていた。私はなぜか、大人向きのベストテン番組という気持ちで聴いていたのだが、これは恐らく演歌も結構ランキングされていたからではないかと今では思っている。番組にリクエストをした人の中から毎週抽選で不二家商品が当たるプレゼントをやっていたのだが、不二家のLOOKチョコレートの空き箱にリクエスト曲を書いて送るともう少し豪華なプレゼントが当たる、というシステムになっていた。私は何度かLOOKチョコレートの空き箱の裏に「高田みずえ『硝子坂』をお願いします」などと書いてニッポン放送に送ったことがあるが、残念ながらプレゼントがあたったことはなかった。

10時から11時は文化放送の「歌謡紅白ベストテン」。井上順が進行役ということもあり、「不二家歌謡ベストテン」とは違って軽いベストテン番組だなと子供心に思っていた。

そして午後は文化放送の「決定!全日本歌謡選抜」である。13時から16時半までの3時間半というワイド番組で、司会は小川哲哉。アシスタントは文化放送の丹羽孝子アナ。前半は音楽情報や歌手が出演するコーナーで、ランキング発表は後半の1時間くらいだった。
小川哲哉が若い歌手を「〜くん」「〜ちゃん」、時には呼び捨てしたりするのが「馴れ馴れしいなあ」と思いながら聴いていた記憶があるが、この番組はランキング発表の時全曲かけてくれる (当時のラジオでは、かける曲を1番でカットする、なんてことがよくあった) のが良かった。ランキング発表時、裏で電話オペレータの拍手やコンピュータの音らしきものがするのも印象に残っている。あのコンピュータの音らしきもの、本当にコンピュータが動いてるんだ、すごいなあと思ったものだ。

と、ここまで書くと、いかに私のラジオ生活が充実していたかが分かると思う。

ちょっとだけ背伸びして若者番組へ

自分のラジオを自分の部屋で聴くようになると、ちょっとだけ大人の世界に飛び込みたくなるのも自然な流れである。それは、中高生以上をターゲットにした、夜のラジオ番組であった。

まず聴き始めたのは、TBSラジオ平日夜の帯ワイド番組で大人気だった「夜はともだち」である。小島一慶と林美雄が交互に担当。夜9時から12時まで、間にいくつかの別録番組 (内包番組) を入れながらの3時間番組だった。
この番組の名物コーナーとして「赤ずきんちゃん食べちゃうぞ」というものがあった。これは、2人が赤坂近辺で見つけた女の子に声をかけ、生放送中のスタジオに呼び込んでプライベートな話などを聞いたりした挙句、最後にはその女の子に水着姿になってもらう、という過激なコーナーだった。
小学校4−5年生だった私は、最初のうちはドキドキしながら聞いていた (女の子の水着姿が見られるわけでもないのに)が、だんだん聴くのがこっ恥ずかしくなってきて、この時間帯はニッポン放送にダイヤルを合わせることが多くなってきた。

ニッポン放送では当時、「夜はともだち」と同時間に「大入りダイヤルまだ宵の口」という番組が放送されていた。パーソナリティは月曜日から木曜日までが高島ヒゲ武、金曜日がくり万太郎。若い方のために補足しておくと、2人ともニッポン放送のアナウンサーで、本名はそれぞれ高島秀武、高橋良一である。
「宵の口」で印象に残っている番組は何と言っても「欽ちゃんのドンといってみよう!」だろう。当時大人気だった欽ちゃんの、夜9時50分からの10分番組で、「宵の口」の内包番組であった。一定の年齢以上の方ならイメージが沸くと思うが、テレビの「欽ドン!」でも放送されていたような、リスナーからのはがき (「お母さんと子供の会話」みたいなもの)を読んで、萩本欽一が「ばかうけ」「ややうけ」などと評価をするという番組だった。
そう言えば、後々のラジオ番組のコーナーの定番的な位置づけとなる「レコード大作戦」というコーナーもあった。
「宵の口」は22時台に入ると、21時台と比べるとちょっと上の聴取層を狙っていたようだった。「日立ミュージックインハイフォニック」という渋い内包番組だった。この時間になると、いい子だった私は寝る準備を始めたものだ。夜遅くに帰ってくる父に怒られるので、だいたい22時半くらいには就寝していたと思う。

ちょっと不良系?な番組も

平日はこんな感じで、「夜はともだち」〜「宵の口」という感じで毎晩を過ごしていた私。週末の夜はというと、「クイズダービー」とか「8時だよ!全員集合!」とかを見ていた(「全員集合」は、父が怪訝そうな顔をしていた)ので、ラジオはあまり聴いていなかったと記憶している。
とは言え、すっかりラジオにハマっていた私。「全員集合」が終わると自分の部屋に入り、ラジオを聴くようになった。

普段からよく聴くTBSラジオ。ここでは毎週土曜日21時半から「ヤングタウンTOKYO」という2時間番組が放送されていた。23時までTBSホールからの生放送、その後はTBSラジオのスタジオにレギュラー陣が入り、30分ほどトークをして終了、という内容だった。
私が聴いていた1977-1978年頃は、司会が鈴木ヒロミツで、レギュラー出演していたのが太田裕美、アン・ルイス、岸本加代子。番組名には「鈴木ヒロミツ大放送」という副題がついていた。
TBSホールからの放送では、この4名に加えて毎週ゲストが登場して歌ったりトークがあったりと言った放送であったが、出演者を応援する男たちの怒号のような声援がちょっと怖くて、当時不良がちょっとした社会現象になっていた背景もあって、「ぼくは不良の番組を聴いてるんだ…」と思ったものだった。
この番組では、太田裕美やアン・ルイスの曲、そして番組に高頻度で出演していたキャンディーズの曲をいいなあと思いながら聴いていた。あと、ラジオCMだったかスタジオからの音楽で聴いたのかは定かでないが、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」を初めて聴いたのがこの番組だった。
CMでは、「ヤングメンズファッション〜、ユーキヤ!」のYUKIYAとか、エドウィンのものが流れていたことを思い出す。
この番組で、私の好きな音楽の幅が広がったのも事実で、今でも太田裕美の曲(特に前期)は大概カラオケで歌うことができる。

第1回の結び

今回は1977-1978年あたりの、私がラジオを聴き始めてのめり込むところまでを書いた。実はこの時期にBCLにも目覚めていて、長距離のAM放送や、短波放送を聴き始めている。改めて、自分のラジオ漬け人生に驚くばかりなのだが、次回はこの辺の話を書こうと思う。

かなり長文になってしまった。noteでは2000-2500字くらいでまとめようと思っているのだが、つい力が入り過ぎてしまい長くなったことをお詫びしたい。
次回もお楽しみに!

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