ZAZEN BOYS/永遠少女

ZAZEN BOYSの永遠少女を初めて聞いたのは22年の新宿文化ホールでのSHIN-ONSAIで、衝撃的過ぎて気が付いたら涙がこぼれていた。2回目は23年の日比谷の野音で、やっぱり泣いた。リフの時点で、ああこれダメだ、ってなった。なぜか。

なんというか、これまで向井の作ってきた世界感が全てぶち込まれている。向井はこれまで現代の殺伐を数多く歌ってきたけれど、例えでも比喩でもない、事実としての殺伐。

鏡の中にいるのはお母さんの面影がある自分と、同じく自分の面影のある、すでに居ないおばあちゃんの写真。例えばどんなに好きであっても別の人間であるという事、例えばどんなに憎んでいても血を継いでいるという事、そんな事を思った。

1945年。向井の曲に度々現れる年号は歴史を語る常套フレーズを、個人的な出来事語るのに使うというなんだそれ的なおもしろだと思っているのだが、この意味しかない年号から始まるパートはもうこれまでの向井の曲ではないという事に否応なく気付かされる。そして床の間で鏡や写真を見つめていた少女は突然背後から突き飛ばされるようにタイムスリップする。

そこに現れるのは少女時代のおばあちゃんの目に同化した少女の目の前で繰り広げられる、殺伐とした現実。人が目の前で死んでいく。死人を野犬が喰う。野犬も生きる為に食われる。痛い、痛い。臭い、臭い。繰り返し叫ばれるフレーズはHonnoujiのずっとずっとずっと待ってるを彷彿とさせるがこれは耳に焼き付く本物の叫び。

途中に死ぬ間際に発狂した男が酒を持って来い!とどなりあげる。向井楽曲と切っても切る事のできない酒が、いま命の終わりを迎えようとしている男の最後の希望として描かれるという怖さ。

「君は間違ってる 人間なんてそんなもんだ」

ここは多分「世の中なんてしょうもない、と投げやりになるのではなく、人間なんてそんなもんだ、という諦念を持つ事」を言っているのでは、と思った。これは向井の歌ってきた諦念感情の事を考えるとわかるのだが、この後がヤバい。

探せ!探せ!探せ!!

泣いた。
向井が探せと言っている。
長年にわたり諦念感情を唄ってきた、あの向井が、どストレートに探せと言っている。

探し続けることって、つらいし、恥ずかしいし、時にまだ探してるのかよ、そんな物はねえんだよ、と後ろ指をさされたりする。
でも探さないと見つからない人は笑われながら一生探し続けなくてはならない。はっきり言って、地獄だ。

生きる事は戦争だし、この世は戦場かもしれない。向井は冷凍都市の暮らしを通じてその風景を描いてきたが、この曲で本物の地獄を描いた。
でもこれは昔は大変だったのだから、いまなんて幸せだよ、という事では無いと思う。
おばあちゃんも、お母さんも、君も、それぞれの戦場を歩いている。探さなくてはいけないものは時代によって、食べ物であり、お金であり、愛だったり、安心だったり、時代と共に変わっていくけれど、今は探さなくてはいけないものが壮大で複雑過ぎる。それすら探さなくてはならない。そんな向井のメッセージなのかなと思った。

・・・

この世界の片隅という映画があるのですが、戦争という恐ろしさばかり伝えられてきた中に描かれたる、淡々とした生活と、ほんのりとした幸せと、地獄。
戦争が終わり、エンドロールで描かれるその後の生活。映画は終わるけど、生活は続いていくんだ。
コトリンゴのピアノのゴトゴトとした低音が心臓の鼓動のように、どこかに誰かを運んでいく電車の音のように美しくて、泣いた。
それを思い出した。

・・・

オープニングの向井のギターの無感情な2コードの繰り返し、カシオメンの昔話の導入部を語るかのようなソロフレーズ。楽曲を通して続く4拍子三連符ビートの飄々としていて穏やかな雰囲気。

そういう感情がこの3分の間に通りすぎ、私は永遠少女を聴くと泣く芸人になるのです。


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