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生き殺しにする大人たち

夜な夜なスマホを片手にリオナの行く末を調べると、幸せに生きている情報を何ひとつ得ることができなかった。長女の時は、スマホで調べれば何でも情報を得ることができたのに、何度【重症心身障害児】を調べても、その時は誰かが書いた【何かを獲得することは難しい】【ただ生きているだけの状態】などのという言葉ばかりが私には入ってきた。
どうがんばっても治らない。治療らしい治療はなく、できるだけリハビリをして生きていくというぐらいの情報しかなかった。

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リオナの子育てはまるで、ある日突然宇宙旅行に行かされ、そこで宇宙人の子どもを育てるミッションを与えられたかのようであった。太陽も月も当たり前にある地球から、太陽も月も見えない星に飛ばされ、どうにか当たり前にあったものを手に入れたくてもがき苦しむ人間の愚かさを痛感した。なぜこんなにも私は障害児の我が子に戸惑っているのか。リオナを育てることがなぜこんなにも苦しいことなのか、と考え始めたのはリオナが2歳の時。すでにリオナのことを溺愛してはいたものの、長女の時の子育て以上の大変さがありすぎた。そして私の行き着いた答えは、「私自身が障害児(者)のことを知らない」というものだった。私が障害児と育ったこともなければ、障害者とかかわることもなく今まで生きてきたからだと気づいた。小学校の時も、支援級に通う子は学年におらず、行く先々に障害者がいなかった。もしかしたら居たのかもしれないが、気にもせずに生きてきた私だったので、見ていないだけだったのかもしれない。そんな私がある日突然重度障害児の母になり、リオナの命は私にとって不完全な命としか受け取れなかった。

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そして、そんな不完全な命とこの世界で出会うものたちは、リオナがいかに不完全であるのかというのを突きつける連続である。今の時期、クリスマスプレゼントひとつにしても、リオナには何ひとつ見つからない。子どもたちが目を輝かせるおもちゃ屋でさえも、リオナにとっては使えないもので溢れている場所にすぎない。使えないのはリオナが不完全だからである。そして不完全な命は不完全であることを理由に行き先もなく、ただ生かされているようにしか見えなくなる。

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少子高齢化の時代に、子どもは宝とされるはずが、欠陥があるとわかると社会は受け入れることを拒否する。けれどこの世に生まれてくる命に罪はなく、大人たちの都合で振るいにかけられてしまう子どもたち。リオナが不完全であると思ってしまっていた私も、日本の義務教育を受け、それが正しいと教えられたことで、我が子すら受け入れられなくなっていたのだと気が付いた。周りの子どもたちと変わらず、1人の子どもとして扱われる前にリオナは「障害児」として扱われ、子どもたちの中へ入っていく機会は当たり前に奪われていた。周りの大人たちも「保育所や幼稚園に行けたらラッキー」、「地域の小学校も受け入れが良ければラッキー」、「校長次第で変わるから良い先生だとラッキー」と口走り、障害児がそう扱われることが当たり前で、子どもとして与えてもらえるものを、与えてもらえなくても仕方がないと支援者たちですら平気で言うようになっている。全て大人たちの事情で障害児たちの運命が決められる。もはやそれはナチスのように私は感じ、とても恐ろしくなった。

市の保育所を3歳児で希望した時は市から、「もう1年療育を受けてから」、「もう少し首がすわってから」、「本人がしんどいから」、と断わられた。
私の住む市には療育を受けられる市の施設はない。重度脳性麻痺で首がすわることはない。毎日一緒にいる母親が大丈夫だと思い保育所入所を希望しているのに、当事者がいない市の話し合いで、これらの理由から入所を断られた。

病気や障害の子どもたちが元気でいられる時間は健康な子どもたちよりも限られている。大人たちの都合で子どもたちの「今」を先延ばしにすることは、目の前で一生懸命生きている命を見殺しにしているのと同じである。



一年間市との話し合いの末、リオナは保育所入所をすることができたが、体の状態が良くはなっていかないリオナは、今年度入退院を繰り返す生活をしている。
もしあの時、大人たちが目の前の障害児を1人の子どもとして扱うことができたなら、リオナは元気な間にたくさんの経験ができたであろう。しかし、こればかりは戦後から変わらない教育と思想で育ってきた大人たちなので、誰が悪いという問題でもないということも分かってはいる。世は楽しいクリスマスでも、日本にはたくさんの障害や病気のある子どもたちが、社会と今日もたたかいながらも笑顔を忘れないで生きていることを忘れてほしくない。

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