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1回目「生かすも殺すも私次第」

[在宅医療児]という言葉を初めて聞いたのは、次女リオナが出産時の事故で低酸素脳症となり、重度の脳性麻痺になったから。


今まで知っていた[在宅医療]という言葉は、最期を家で迎えるために、病院での医療的なケアを家でしながら、家族と住み慣れた家で過ごすためのものだと思っていた。
だがリオナは違った。これから生きていくために医療的ケアをしながら家で過ごしましょう。重度の脳性麻痺で何もできないと言われたリオナを家に連れて帰って家族と過ごしましょう。「お家で家族と過ごすのが一番ですよ。」と医師や看護師に言われた。毎日NICUに通い、リオナの医療的ケアの手技を覚えて家に連れて帰った。

本人にはまだ住み慣れたところも無ければ、居心地のいい家族もわからない。そんなリオナを私はかわいいとも思わなければ、「何で私が障害児の親になってしまったのだ。あの時のあれがいけなくて、罰があたったんやな。」と、自問自答すれば出てくる出てくる。過去の懺悔話。人間生きていればそれなりに懺悔したい過去が1つ2つは出てくるはず。
何の資格もない私は看護師になれそうな、いや、看護師以上の時間、医療行為をしながら日常を過ごしている。無給、無休、でリオナの生命を維持している。私が手を休めればリオナは死ぬ。そして私がどれだけしんどいからと言っても、その手を休めた瞬間、私は殺人者にもなれる。

終わることのないリオナの医療的ケア。何度もやめてしまおうと思い、このまま手を止めて死を迎えることが正解なのではないか、とも思った。それもこれも、「私が障害児の母になってしまったから。」、日本の教育でしっかりと私に根付いていた[優生思想]に私はリオナを排除していた。私にとってリオナの命は不完全すぎた。食べれない、歩けない、喋れない、座れない、動けない。できないことだらけ。できることなどひとつもなかった。
こんな状態でリオナは生きている価値があるのか。

そう思いながらお世話をしていた私が出会ったのが看護師で[まぁるい抱っことスリング]を教えていた辻直美先生。

[言葉だけがコミュニケーションじゃない。リオナは体をそらしたり、できる手段でママって伝えてるよ]と言われた。その時リオナは生後半年。思い返せば反り返っていた。めちゃくちゃ小さな声で[フーン]と泣いていた。それを私は、赤ちゃんなら[こうあるべきだ]という考えで、どれひとつリオナからの発信を受け取ろうとしていなかった。抱っこしたリオナはやわらかく暖かく、初めて私はリオナの母親である自覚が生まれた。そして初めてリオナの命が愛しいと思えた。この子は生きている。リオナがどういう状態で生きていこうと、幸せかそうじゃないかは、リオナにしかわからない。抱っこもせずに生かすことだけに必死になっていた私は「もっと抱っこしてあげればよかった。ごめん。」と涙が止まらなかった。

この日から私は非言語のコミュニケーションでリオナと会話をするようになった。障害児の[お世話]が「育児]に変わり、私はどんどんリオナに話かけるようになった。コミュニケーションとは受け取る側の問題でもある、とこの時深く知った。この日以来、長女が寝ている横でリオナを抱っこしながら泣くということはなくなった。

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