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人の最終形態

人の望む最終形態は、自身の望まない形であることの方が多いはずなのに、人はその日まで自身の最終形態を知ることなく、日々一生懸命生きている。

最近でこそ、最後はどのような形で迎えるか、その日までどう過ごすかと話し合える場が持てたとはいえ、その頃には当事者が判断できる状態でないことも多い。

ましてや、意思疎通の難しい身体状態の人に対しては、予測と周りの利便性でしか判断できないのが現状ではないか。

老人ホームでのんびり優雅に過ごしていた祖母が、本人も想定してない急変に、気がつけば何の落ち度もない1人の人間が、拘束される状況に陥り、仕方がないと自由を奪われる。

一方で、生まれた時から言葉を発することなく人権もないように扱われる重症心身障害と呼ばれる我が子は、拘束されなくとも、「仕方がない」という判断で、無言の拘束をされる。

どうしたいかと言葉にできないのをいいことに、人はその人自身を1人の人として向き合うことをせず、考えることをやめて、こちらのいいようにしてしまう。

本当の意味で自分事に置き換えるというのは大変な作業であり、想像の世界でしかない。

生まれた瞬間から片道キップでスタートをきった私たちは戻れないことをいいことに、臭い物に蓋をするという作業を繰り返す事で自身に待ち受けている困難にすら蓋をしている。

高齢の祖母と、年単位で重症化していく我が子を目の前に、私はどうにか過去の記憶と体験に答えを探すも当たり前に答えはない。

本人たちの望む在りたい形を、言語表現できない状態から導き出すのは予測とこちらの勝手な判断であるかもしれない。

けれど、間違ってもこちらの都合のいいようにしてはいいとはならないと思う。

全ての命に当たり前に人権があり、仕方がないと片付けられないでほしいと願う。

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