いじめを目撃してしまう(17日目)

 妻の誕生日を忘れていたことを二日前になって気づく。プレゼントは退院後に渡すとしても、花くらい送るか。しかし病院の近くに花屋なんてあったか。モリオに聞くと、病院の近所の大型スーパーの中にあるらしい。午後になって行こうとするとモリオもついて来た。

 「スーパーに行くなら、ついでにフードコーナーでハンバーガー食いましょう」

 郊外ならどこにでもあるような、しかし大手ではないスーパーが、通りから少し入った場所にひっそりと建っていた。自動ドアが開くとすぐ手前にレジが並び、その向こうに食品売り場が広がる。

 花屋はスーパーの隅の空きスペースを活用している規模のものだった。六畳程度の部屋に、ところ狭しと置かれた花とその匂いに圧倒される。エプロンをつけた男性店員に適当に見繕ってもらい、その間に配送伝票を書く。ペンを置く頃には花束ができていた。

 名前はひとつも分からなかったが、色とりどりに飾られた花は美しく、その組み合わせに感動した。花束を抱えた店員も含めてひとつの作品のようで、そのまま妻に見せたいと思った。

 健やかな気持ちで花屋を出ると、モリオはもうイスに座りハンバーガーを食べていた。店先に広がる二十席程度の座席はほとんど埋まっていない。ベビーカーと主婦が何組か、モリオの少し離れた所に座っているだけだ。フードコーナーに並ぶ、たこ焼きの写真を見たら食べたくなった。六個入りを買いマヨネーズとソースをかけ、席に向かう。

 「一個下さいよ」

 「だめ」

 モリオのトレイには丸められたハンバーガーの紙袋がふたつと、まだ食べていないものがひとつに、ポテトもあった。

 「昼食べなかったの」

 「食べましたよ、煮物以外は」

 「入院中にあと何キロ増やすんだよ」

 「たこ焼き一個下さいよ」

 「わかったよ」

 モリオが楊枝でたこ焼きを刺す。持ち上げようとすると皮が崩れて中身が出て、口まで運ぶ頃にはたこしか刺さっていなかった。たこもスーパーで安売りしているような、小さくてやけに赤いやつだ。それでもおいしそうにほおばりながら、病院から持ち出したらしいマンガを開く。

 「持ち出すなよ」

 背後から突然嬌声がしたので振り返ると、ふたつ隣のテーブルに女子高生の集団が座った。マンガを読んでいるモリオは集中しているようで、見向きもしない。別に聞きたくはなかったが、会話が耳に入った。

 「もう帰ってくるかな」

 「まだでしょ。今日は最低一時間って言ったからね。この間なんて十分位で帰ってきたからさ、ふざけんなよって怒鳴ってやった」

 そこまで聞いて、楊枝でたこ焼きを刺そうとした手が止まった。

 「当たり前じゃん。お見舞い行って十分で帰ってくるってありえないでしょ。それでも友達かよって」

 「友達じゃないし」

 平静を装い、たこ焼きを口に入れようとしていた手が再び止まる。女子高生たちの、黄色くて冷たい笑い声。楊枝を置き、彼女たちを見る。

 どこにでもいる、垢抜けてもいないが、もう子どもでもない、普通の女子高生。たぶん制服はいつかの夜見た、メガネの子と同じものだ。

 「もしかしてさ、違う病気も持ってたりして」

 そう言った女子高生が意味深に目配せする。息をのむような少しの間のあと、再び嬌声。

 「自分が悪い。調子乗りすぎ、自業自得」

 「今日はちゃんと伝えてるから」

 「何て」

 「カワハラさん、退院して来ても、もうクラスに席ないよって」

 勢い余ってたこ焼きの容器に楊枝が刺さる音も、彼女たちの笑い声にかき消された。テーブルが揺れたことに驚いてモリオが顔を上げる。今の会話が聞こえていなかったのが心から羨ましいと思った。いや、聞こえていても、何のことだか分からないか。でも俺には分かる。二階に入院している女子高生も、見舞いに来ていたメガネの子も、学校でいじめられているのか。

 マンガを読みながらポテトを食べているモリオは微動だにしない。「先に帰ってる」と言い残しスーパーを出た。外見は普通に見えるのに。でも普通って何だ。胸の辺りからどす黒いものが上がってくるような気がして、立ち止まる。

 自分の学生時代は恵まれたものだったのだろうか。部活しかしていなかったから、周りのことはあまり気にしていなかった。知らなかっただけで、クラスにいじめのひとつやふたつあったのかもしれない。退院した後、教室へ行くと、あの女子高生の机に花瓶が置いてあるのを想像して寒気がする。いじめた相手が命を断ったらどうするのだろう。それでも彼女たちは笑うのか。十代の底なしに冷たい悪意にあてられたせいで眩暈がした。生まれて初めて、理解できないものを怖いと思った。

 病室に戻ると、高山さんも浅田さんも留守のようで、窓際に立った二瓶さんがひとり夕闇に照らされていた。声をかけると、「あの猫よ」と窓の外に見える職員用の駐車場を指差した。

 丸々太った黒猫が、アスファルトの地面に背中をこすりつけているのが見えた。モリオが散歩に行くときによく遊んでいる猫だ。僕も入院初日に見た。この病院に初めて来た日が、もう何ヶ月も前に感じる。

 「よくここら辺をうろうろしてんだよ。どっかの飼い猫か知らないけどさ」

 「ええ」

 「あの猫にさ、俺の菌をうつしてやろうと思って。動物も結核になるのか分かんないけどさ、俺ばっかりこんな目にあうのは不公平じゃん。三ヶ月前に腸をやって、出てきたばっかりなんだよ」

 「そうなんですか」

 「だからさ、あの猫を見る度に、今にうつしてやるからなって思ってんの。近くに行くと逃げちゃうんだけど」

 最後の言葉を聞いて安心する。あの猫がモリオにだけなついているように見えたのは、気のせいではなかった。草むらに移動して眠たそうに座る猫を見つめふたりとも沈黙していると、病室に看護婦が入って来た。

 「二瓶さん、明日ね、エコーとお腹のCTの検査がありますから」

 「私ですか」

 猫の話など最初からしていない様に、二瓶さんは笑顔になった。

 「朝食は抜きで、お風呂も検査が終わってからです。今日も夜九時を過ぎたら、何も食べないでくださいね」

 「はいはい。分かりました」

 話している時はにこやかにしていたのに、看護婦が出て行くや否や「若作りのババアが」と悪態をつく。洗濯物を取り込んできた高山さんが部屋に戻って来て、二瓶さんの持っていた紙を覗いた。

 「腹部エコーとCTだってよ」

 「ああ、あの、お腹にゼリーみたいなの塗るやつね」

 「人間ドッグで何回かやったことあるけどさ、あれちょっと気持ち悪いよな」

 「俺もこの前やったけどさ、あのにゅるにゅるしたやつでお腹触られて、若い女の医者があちこちまさぐるもんだからよ、危なかったよ」

 老人たちが下らないことを話している内にどこかへ逃げればいいのに、猫はさっきと同じ場所に座り、眠たそうな顔でずっと足を舐めていた。

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