孫に説教する

 八月二日(火)福留

 孫の話で再三女房にせっつかれ、恵理子のところへ電話をかけた。久しぶりに聞く娘の声は疲れているようで、見舞いに来ないことへの嫌味を言う気も失せ、すぐに裕太に替わってもらった。

 「もしもし」

 こちらの声は以前と変わらぬ、屈託のない声だった。引きしめていた顔が思わず緩む。

 「もしもし、裕太か」

 「うん。おじいちゃん、お見舞い行けなくてごめんね」

 顔がゆるむどころか目頭まで熱くなる。この子は親よりよほど分かっている。もしかしたら親を試す気で、先の発言をしたのかも知れない。利発そうな目は私の父に似ていた。

 「おじいちゃんは元気だから、心配しなくていいよ。それより裕太、この前、お友達にボールをぶつけたんだって」

 「うん。あのね、ヨウスケ君が嫌なこと言うからね、やめてって言ってもやるからね、怒ってボールを蹴ったの。そしたらヨウスケ君の顔に当たっちゃった」

 「そうか、大変だったね」
 
 一呼吸置く。ヨウスケ君は口で言っていただけなのに、どうして自分はボールを蹴ったのか。口で言えば済むことではなかったのか。そんなことはもう他の大人にさんざん言われただろう。怒られれば謝るが、心にわだかまりは残ったままだ。それよりももっと、祖父の立場から言えることがある。

 「ねえ、裕太は誰かとお別れしたことがあるかな。学校から帰る時にする『さよなら』とは違って、もっとずっと長い間、その人とは会えない、長いお別れ」

 「うん、あるよ。保育園の先生とお別れした時」

 数ヶ月前に小学校に入ったばかりで、まだ自分の顔よりも大きな受話器を、両手で持つ孫の顔が浮かぶ。その目はまっすぐに私を見据えている。

 「そうか。でも、誰かと別れても、ずっと残るものがあるよ。それは何だ」

 「うーん」

 受話器の向こうで考え込む雰囲気。「分かんない」

 「分からんか。人と別れてもずっと残るもの、それは思い出だ。その人と過ごした楽しい思い出や、嬉しかったことは、ずっと裕太の心の中に残っているだろう」

 「うん」

 「離れ離れになっても、その人の心の中に生き続ける、それはとても素晴らしいことだ。でもね、反対に嫌な思い出が残ることもある。この間、裕太は友達を傷つけたね。元々はその子が悪くても、傷が残れば、その子はきっと裕太のことを絶対に忘れない」

 受話器の向こうから返事は返ってこなかった。

 「友達の目に傷が残ってしまったら、きっとその友達は、鏡を見るたびに裕太のことを思い出すだろう。自分の目に傷をつけた憎い相手として、裕太はその友達の心の中にいつまでも残り続ける。きっと一生忘れることはない」

 「わざとじゃないよ」

 孫の声は震えていた。必死に涙をこらえているようだった。

 「わざとじゃなくても同じだ。いいかい、やられた方も、傷つけた裕太のことを許さなくちゃいけない。それは大変なことだ。自分を傷つけた相手を許すには時間がかかる。裕太も喧嘩したことがあれば分かるだろう。誰かをぶったり、ボールをぶつけたりしたら、残るのは嫌な思い出だけだ」

 「うん」

 消え入りそうな声と、鼻をすする音が聞こえる。こらえきれずに泣き出したようだ。

 「いいかい、これが、人を傷つけてはいけない理由だ。暴力は体だけでなく、心にもっと大きな傷を残す。おじいちゃんが誰かに殺されてしまったら、どうする」

 「そんなの嫌だ」

 「そうだろう。それが答えだよ。おじいちゃんも、お前が誰かに傷つけられたら絶対に許せないよ」

 受話器の向こうから、しゃくりあげるように泣く声が聞こえた。子どもにしかできない泣き方だ。大人になると、人は息を殺して泣くようになる。今のうちに大声で泣けばいい。

 「今度また嫌なことを言われた時は、今おじいちゃんが言ったことを思い出しなさい。口で言われたら、口で倍返しにする位の強い心を持ちなさい。本当に強いというのは、暴力を振るわないことだよ」

 「はい」

 泣きながら返事をする孫の声を聞きながら、こちらもまた目頭が熱くなった。認めたくはないが、年を取って涙もろくなったのだろうか。娘に気取られるのが嫌で、おやすみを言うとすぐに電話を切った。その夜は私まで、泣き疲れた子どものようにぐっすりと眠った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?