友達の復讐に付き添う

 八月二十三日(火)砂原

 昼食後の薬を飲み、Tシャツとジーンズに着替えると野田君のベッドへ向かった。本来なら服用後二時間は安静にしていなければいけないが、昼寝している間に彼がひとりで出かけてしまったらまずいと思った。 

 向かいの二一一号室へ入り、カーテンの上から覗くと、野田君はヘッドフォンをして雑誌を読んでいた。「砂原だけど」と顔を出すと、野田君は露骨に嫌な顔をした。

 「今日、ライブの日だよね」

 数日顔を合わせてないだけなのに、野田君は少し頬がこけたようだった。

 「そうだけど」

 「一緒に行っていいかな」

 「何で」 

 「何でって、復讐するって言ってたでしょ。俺も手伝うよ」

 嘘だった。本当に野田君が自分をいじめた相手をどうにかしようとしたら止めるつもりだった。

 「チケットないでしょ」

 「当日券買うよ」

 野田君は隣のベッドにまで聞こえるような音で舌打ちした。気にしない振りをして、「何時に出るの」と聞く。しばらく眉間にしわを寄せ沈黙していたが、やがて野田君は「夕食後」と答えた。 

 「じゃあ、その時間になったらまた来る」

 「来なくていいよ」

 「六時半に来る」

 もう一度、「来なくていいよ」と言った野田君が少し笑ったように見えて安心した。自分のベッドに戻ってうつ伏せになり、自分には復讐される過去がないだけ幸せか、などと考えていたらいつの間にか眠っていた。

 習慣(昼寝)というのは怖い。六時前に目が覚めるまでトイレにも起きずに眠りこけていた。枕元の時計を見て飛び起き、向かいの病室を覗くとちょうど野田君がコップを持って出て来て、明らかに寝起きの僕を見ると苦笑いした。Tシャツのままで寝たため、唯一の外出着がしわだらけになっている。

 なるべくしわが伸びるようにシャツをもみながら夕食を食べた。検温が終ると野田君のベッドへ行き、二人で職員用の玄関から病院を抜け出した。

 駅に向かうバスの中で、会話らしい会話はほとんどなかった。野田君は背中にギターケースを担いでいたので、「まさか本当にギターで殴る訳じゃないよね」と聞いたが、反応はなかった。そのあとに続けた、「どうやって復讐するの」や「どんなバンドなんだろうね」や「ライブハウスって駅前のどこら辺」という僕の言葉は完全に無視された。

 ターミナルでバスを降りると、野田君は足早に駅を抜け、裏の細い路地に入った。帰宅の通勤客にギターがぶつかりそうになるのも構わず、野田君は確固たる足取りで歩き続けた。僕も巻かれないよう必死に追いかけた。

 ライブハウスは駅から五分程歩いたところにあった。レンガ造りで趣がある外見をしているが、店のようにも、ただの古い民家にも見える。

 地下にある入口へ降りる階段の周りには、色とりどりのチラシが貼られていた。小窓のついた受付で代金を支払うと、チケットを手渡される。ドアを開けるともうライブは始まっていたらしく、地鳴りのような音が全身を包んだ。バンドの演奏を見るのは高校の学園祭以来だ。それほど広くない室内にドンドンというドラムの音が響き、自分の心臓の鼓動まで大きくなったように錯覚する。

 暗くて他の客の顔もよく見えない中、野田君はステージが真正面に見える壁に、ギターを下ろして寄りかかった。腕組みをし、演奏を吟味している様子だったが、話しかけようと近づくと野田君は耳栓をしていた。

 こういう場所に来ると、こんなに大きな音を出して大丈夫なのかといつも思う。近所迷惑や、人体への影響について。防音設備があるにしろ、これほどの大音量が体にいいとは思えない。以前ゼミのクラスメイトとクラブへ行った時にそう言うと笑われた。僕も耳栓を持って来ればよかった。音が多すぎて、演奏している音楽のジャンルもよく分からない。

 呆然とステージを眺めていると、やがて音楽がやみ、演奏していた男たちが袖へ引っ込んだ。どの人が復讐相手か聞こうと振り返ると、野田君はいつの間にか耳栓を外し、この場には似つかわしくないグレーのスーツを着た初老の男性と会話していた。

 「君は新井君たちとはあまり仲がよくないと思っていたけど」

 白髪まじりの癖毛を後ろになでつけ、丸眼鏡をかけた男は僕に視線を移すと「お友達かね」と野田君に聞いた。「違います」と言われたらどうしようと思ったが、野田君が「一応」と答えたので安心する。

 「この人、誰」

 野田君が耳栓を外しているのを確認し、小さな声で尋ねた。

 「高二の時の担任」

 野田君は男性から視線をそらさずに答えた。それから僕の耳元で「いじめを黙認してた教師」と低い声で囁く。

 「僕の所にも招待が来てね。いや、しかしなかなかのもんだな、音が大きくて。野田君は高校の頃から音楽をやってたもんな」

 男は野田君のギターを見てから、懐かしむように目を細めた。いじめを黙認するような卑怯な大人には見えなかったが、野田君が言うならそうなのだろう。

 「先生は僕が新井たちにいじめられていたことを知っていましたよね」

 野田君は担任教師を見据えて言った。単刀直入という表現がぴったりな言い方だった。

 「あまり仲がよくないようには見えていたがね」

 「仲がよくないどころじゃありませんよ。いつもちょっかい出されて、こっちは我慢してたんですよ」

 「我慢しないで、喧嘩すればよかったじゃないか」

 「見て見ぬ振りをしていたっていうことですね」

 「見ない振りと様子を見るのは違うよ」

 「屁理屈だ。あんたはいじめられている生徒を助けないで、黙殺したんだ」

 「助けないでって、いつもは教師の言うことなんて聞きもしないのに、自分が困った時だけ助けてか。困った時の神頼みと同じだな」

 「お前は神かよ」

 野田君の大声に周りにいた人たちが驚いて振り向いた。気まずくて思わず下を向いてしまったが、当の本人は周りなどまるで見えていないようだった。

 「ただの教師だろ」

 「そうだよ、ただの教師だ。神ではない」

 微笑みさえ浮かべながら教師は返した。「君には以前から、そういう直情的なところがあったね」

 教師の声は静かだが、野田君を黙らせるには効果的なようだった。このあと何を言われるのかと僕まで緊張し、唾を飲み込む。

 「そういうところが、新井君の気に入らなかった所なんじゃないかな。だからちょっかいを出したんじゃないか」

 「やっぱり知ってたんじゃないか」

 「教師が何でも解決してくれると思ったら大間違いだぞ。社会に出て、大人になっても、気に入らない奴はたくさんいるよ。むしろ社会に出てからの方が圧倒的に多い。そういう、気に入らないことや、気に入らないものを克服する訓練をするのが学校じゃないか。周囲と、社会とどう関わるかを学ぶための集団生活だろう。君たちはこれから何十年も、そうやって晒されていくんだ」

 先生の言っていることが、正論以外の何物でもないことは僕にも分かった。それは残酷で、救いがないようにも聞こえる。正論に優しさや思いやりはなく、ただ正しいだけだ。

 「君はひとりでやられてたんじゃない。仲間がいただろう。そして新井たちとは戦わずに逃げた。自分には他に仲間がいるから、いいやと逃げたんだ。見ない振りをしていたのは自分じゃないのか。いじめられている自分をなかったことにして、現実を見なかったのは君自身じゃないのか」

 野田君の話しか聞いていなかったから、本当はどうだったのかは分からない。しかし、言われた彼は黙ってうつむいていた。

 「正面から喧嘩でもして、ねじ伏せればよかったんだ。直情的な面もあるのに、いっぽうで君はひどく臆病だな。しかし新井君も、多少なりとも君を意識していたんだと思うよ。バンドを始めたのも、案外君の影響かもな」

 ふん、と野田君は声には出さずに鼻で笑った。否定的とも、自虐的とも取られる笑い方だった。

 「もう帰るよ。新井君によろしく言っといてくれ」

 「自分で言えよ」

 今度は先生がふん、と笑った。否定的でも自虐的でもない、幼い子どもが悪戯したときに、笑って許すような顔に見えた。

 「そうだ、新井は卒業してから年賀状も寄こすし、学校にも何度か来たぞ。君もたまには顔を出せ」

 先生はドアの前で立ち止まり、そう言うと階段を登って行った。その姿を二度と見ることはないのだろうなと思うと、なぜか切なくなった。野田君も同じように先生の後ろ姿を見送っていた。

 いつの間にかライブが終わり、ステージ上の楽器が片付けられていく。野田君に「帰ろうか」と声をかけると、無言でギターを担いで出口へ歩き出した。狭い階段を上り、外へ出ると蒸し暑さが全身を包んだ。 

 駅に向かうとばかり思っていたのに、野田君はライブハウスと隣の建物の間に消えた。慌てて後を追いかける。

 「まだ復讐なんて考えてるの」

 「言いたいことがある」

 「何を」

 「関係ないだろ」

 その言い方に思わず僕は野田君の肩を掴んだ。君を助けるためについて来たのに、その言い方はないだろう。そう言いかけたとき、裏口のドアが開き、数人の笑い声が中から漏れてきた。出てきたのはステージで演奏していたバンドの連中だった。僕と野田君に気づくと男たちは話すのをやめ、薄暗い中、僕たちの顔を覗き込むようにした。

 「新井」

 野田君の声に、先頭の男がかすかに顎を上げて反応した。ステージの中央でギターを弾きながら歌っていた男だ。あの男が新井か。知っていたらもっとステージでの様子を注意して見ていたのに。新井は野田君と目が合うと「あ」と漏らした。

 僕たちとバンドのメンバーが小道を挟んで対峙していると、駅とは反対側から、ふたつの影が伸び、話し声が聞こえてきた。このあたりは飲み屋も多いから、酔っぱらいも多そうだ。早く通り過ぎればいいのに、と思っていると、なぜか会話する声に聞き覚えがある気がした。やがて足音が止まり、男たちの顔が見える。

 「あれ、何やってんだこんなとこで」

 影から姿を現した男のうち、ひとりが僕に向かって言った。聞き覚えがあるはずだ。隣のベッドの大沢さんが、道を挟んで対峙する僕達を、笑いながら見比べていた。

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