ある妄想

 七月二十四日(日)榊

ある病室に、誰とも話さず、カーテンを締め切っている患者さんがいました。ある日、その病室を、ひとりの男の子が訪ねました。

 「あの、すみません」

 「何でしょう」

 か細くて、今にも消えてしまいそうな声でしたが、返事がありました。男の子は「ちょっとだけお話しませんか」と聞きました。すると、閉じていたカーテンが少しだけ空き、人がひとり入れるくらいの隙間ができました。男の子は急いでカーテンの隙間から中に入りました。ぐずぐずしていると、そのカーテンはすぐに閉まってしまうような気がしたからです。

 「失礼します」

 男の子が声をかけるまで、その患者さんは、窓から入る日の光で本を読んでいたようでした。ベッドにきちんと腰かけ、本を手に持ったまま、男の子の方を少しだけ向きました。その白い顔に、少し困ったような表情を浮かべていました。

 「あなたは、どうして他の患者さんとお話しないのですか」

 男の子が訊ねても、患者さんは答えませんでした。しかし、口が動かない代わりに、目は男の子を真っ直ぐに捉えていました。男の子はその目を見つめ返しながら、きれいな目だな、と思いました。

 「人と話をするのが好きではないのですか」
 
 男の子はさらに質問をしました。しかし、患者さんは黙ったままです。男の子はあきらめることなく、患者さんが答えてくれるような質問を、一所懸命考えました。

 「ここにいる人たちが好きではないのですか」

 男の子の問いに、無口な患者さんがわずかに反応したように見えました。それは本当に、瞬きをしていたら見逃してしまうほど一瞬でしたが、わずかに顔色が曇ったのです。男の子は、それ以上質問するのを止めました。待っていれば、向こうから答えてくれると思ったからです。

 「ここの患者たちの会話が聞こえてくると、いつも、恐ろしくなります。つまらない人たちのつまらない会話に合わせるため、自分を偽ることはできません」

 初めて聞くその声は、男の子が想像していた通り、とても綺麗で澄んでいました。

 「あなたは他の患者たちを、心の底から嫌悪しているのですね。それで、わざと周囲から孤立するような態度を取っているのですね」

 「嫌悪はしていません。私は彼らを許しています」

 患者さんの言葉は、とてもはっきりとした意思を持って、男の子の胸に響きました。

 「許している? 何だかひどく傲慢な言い方に聞こえますね。あなただって、ここの世界の住人に変わりはないのに」

 男の子は、まるで自分のことまでくだらない人間だと言われたようで、腹が立ちました。自分は他の患者と違って、決してつまらない人間などではない。無口な患者さんだったら、そのことを分かってくれていると思っていたのに、何だか裏切られたような気分でした。しかし、追い討ちをかけるように、無口な患者さん続けました。

 「つまらない人間は、閉鎖された空間に隔離される以前から、往々にしてつまらないものです。あなたの言う通り、私もこの世界の住人ですが、自分がこの世界で生きるには、この世界を受け入れなくてはなりません。私はこの世界を受け入れ、彼らの存在を受け入れています。彼らは放っておけば、危害は加えてきません。しかし許せないのは、あなたのように土足で、人の世界に入り込んでくる人です。ところであなたは、ここが女性患者専用の部屋だということを知っていますか」

 そう言うと、無口な患者さんは手元にあった、ナースコールのボタンを押しました。程なく看護婦たちがやって来て、男の子は部屋から連れ出されました。

 翌日から、男の子は「男性立ち入り禁止の部屋に入った危険人物」として、厳重に隔離されてしまいました。

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