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研究についてのボヤキを許してほしいのです。

研究者として仕事をする立場として思っているボヤキを、的外れな可能性もあるがちょっとだけ書かせてほしい。

一般に研究者とは、自らの知的好奇心に従って知や真理を探究しながら、人類社会にとっての何らかの新しい知見をもたらすことが期待される存在である。

この定義のようなもの自体に対しての異論はないのだが、私のようなひねくれた人間としては、この定義を聞いたときに、妙な不納得感を覚えてしまう。

それは、アウトプットとして、常に「何か新しいもの」を要求されているような気がしてしまうからである。

研究者にとってのモチベーションの1つは、何かが「わかった!」という知的興奮である。それは、必ずしも人類社会にとっての大発見に限らず、既に人類社会的に既知のこととされていたとしても、単に自分が知らなかったことで新しい知見を得たときとか、自分が既知だと思っていたことが何らかのかたちで再解釈されたときとか、そういう瞬間に訪れるものだ。

私は、こういう種類の知的興奮がモチベーションになることについては、大いに共感する。しかしながら、それが「人類社会的に新規性のあるもの」でないと、研究者を仕事としながら生きていくことできないのである。

私が感じている不納得は、そういう人類社会的新規性に囚われずに、もっと素直に「ただ自分にとってnewなこと」を喜びにして生きていってはいけないのか?というところにあるのだと思う。

この問いについて、それはそれでアリ、と言える可能性もある。

というのも、別に研究を仕事にするのではなく、他の何らかの仕事をしてお金を稼いで生活できるなら、それ以外の時間を使って自分なりに勝手に探究を進めて、勝手に知的興奮を味わえば良いからである。

私個人としては、自分の人生の喜びの1つであるこの知的興奮を、研究者として成果を出すために急き立てられる環境下で行うことについて、少しの抵抗感がある。

研究者を仕事とすることのメリットの1つは、生活保障と共に、そういう探究に必要な金銭的・人的・環境的リソースを得ることができることであろう。

この辺りを自分としてどのように考えれば良いか、まだあまりよくわかっていない。多額のお金をつぎ込まないとわからないようなことを知りたいとまで思うかどうか、と言われたら、そこまでの探究心や知的好奇心は持ち合わせていないとも思う。

つまらないことをボヤいてしまった。

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ともやの思考整理note
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