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人生25年ではじめて、私として生きるようになった話

このページを開いてくださった方ありがとうございます。

株式会社GOAL-Bの岡中友美です。

2021年12月1日より正式に社員メンバー(当時のメンバー区分)となり、大変遅ればせながら記事を投稿します。

どうしてGOAL-Bで働いているのか?

このきっかけとなった経験を中心に今までの私の人生について書かせていただきました。

10,000字を超えたので「大きく変化したきっかけ」から読んでいただけると、約4,500字で入社の経緯がわかります。
少し長くなりますが、お付き合いいただけると幸いです。

幼少期

〜病院との出会い〜

私は4人家族の2人姉弟の長女として北海道で育ちました。

小さい頃はあまり身体が丈夫ではなく、長期入院することもありました。父は仕事が忙しく、いつも母が入院に付き添ってくれていたので2歳下の弟にはかなり寂しい思いをさせてしまったと思います。


この頃から「病院」という場所が身近な場所でした。


また、父方の祖父母が厳格だったこともあり、

「怒られないようにすることが良いこと」

と思い、良い子でいるため関わる相手の正解を探すようになりました。

「自分が我慢して丸く収まるならそれで良い」

という考え方もこの頃身についたように思います。
なんとなく音楽が好きだった私は一度だけ、「ヤマハ音楽教室に通いたいの!」と言ったことがありました。結論、通っていません。


小学生

〜身体を動かさない日はない活発な日々〜

休み時間は、女の子と室内で〇〇ごっこをして遊ぶよりも、男の子に混じって外で遊んでいる方が楽しい!学校から帰ってきても公園に遊びに行って暗くなるまで帰ってこない。あざだらけになっても気にしない!という活発な子どもでした。

その影響もあってか、習い事は全て運動系でした。

小学校2年生、父の影響で卓球を始めます。
小学校4年生、友達に誘われて、ミニバスも始めることになりました。
これと同時に、弟が習い始めたので私もトランポリンをはじめました。

現時点で3つの習い事(しかも全部運動系)を掛け持ちし、学校が終わったらバスケ、その後にトランポリンか卓球と毎日スポーツ漬け。
パートをしながら送り迎えとお弁当を用意するのは母でした。

当時は辛いと思ったこともなかったし、それが普通の毎日だったので疑問を持つこともありませんでした。
今考えれば、思えば異常な忙しさだったように感じます。この頃辛くならなかったのか?と母に一度聞いたことがありました。

「私も弟も辞めたいと言わずにやっていたからね!」

と一言。感謝しかありません。

記憶のほとんどはスポーツで、勉強した記憶はほぼありません。
小学生の時の印象的な出来事といえば、図工の時間に「大きく描くんだよー!」と言われて本当に大きく描いた秋刀魚が一人だけ鮭みたいになって、並べて飾られているのがとても恥ずかしかったことです。

中学生

〜人の求める答えや、その場の正解を探す日々〜

入学したのは、地元でも比較的大きな学校(と言っても田舎なのでひと学年は200人程度)でした。

勉強はあまり得意な方ではありませんでした。今考えれば、

「勉強の仕方を知らなかった」

というのが正しいです。特に国語は嫌いで、筆者の意図が全くわかりませんでした。文章に対する苦手意識が芽生えたのもこの頃です。

流石に焦りを感じ、中学3年生の春初めて塾に通いました。
厳しかったですが、おかげで勉強するということを覚えました。この時が人生で一番勉強を頑張りました。

当時は、人に嫌われたくないという気持ちが強かったです。いじめられたくない、嫌われたくないという気持ちから、

「私はこう思う」「私はこうしたい」

という感情を抑え込むようになり、

「この返答を求めているだろう」
「この場はどう対処するのが正解だろう」

と考えるようになりました。
狭いコミュニティで生きている中学生の時の自分にとって、そこで排除されることを恐れていた記憶があります。

この頃のもう一つの大きな出会いは、歌とダンスでした。
ある番組をきっかけに、歌とダンスにとても興味を持ちました。そこから東京女子流というグループに出会い、休日にUstreamを見ることを楽しみにしながら毎日学校に行っていました。この頃から毎日歌って踊っていたように思います。

やっぱり音楽が好きでした。

このように音楽が好きだったことや、「ヤマハ音楽教室に通いたいの!」と言っていたことから音楽へ興味がありました。母がよく自衛隊の演奏会や吹奏楽のパレードなどを見に連れて行ってくれていたことも影響していると思います。
多少なりとも吹奏楽部に興味がありました。

しかし、私は音楽未経験で楽譜も読めません。新しいことに挑戦する恐怖が勝ってしまい、そのまま女子バスケットボール部に入部しました。

10人で入部し、地区一番の強いミニバスからの子がほとんどでした。中学校からはスタメン5人いれば試合ができるので、基本的には5人と交代要因で2.3人程度いれば試合はできます。

私はベンチを温め、声を出して応援、スタッツと呼ばれていたランニングスコアよりも細かいシュート率やリバウンドの回数、ターンオーバーの回数まで記録するスコアをつけることが1番の特技でした。

そんな私ですが、もう一つだけ誰にも負けないと思うものがありました。それは

体力」です。

体育館での練習後3kmか5km走るのが当たり前のチームでした。3kmは12分で走り、他のメンバーに比べて校周1周差をつけて走っていました。とても嬉しかったのを覚えています。

ある時練習試合の後に、一人だけ顧問に呼び出されたことがありました。

他校の監督から

「この子を上手に使えばチームは強くなる」

と言われたと伝えてくれました。「期待している」と言われたことが本当に心から嬉しかったです。

当時、ユニフォームの番号が試合のたびに変更されていました。相対評価ではありますが、頑張っていると番号が上がるのです。次の大会前に私はユニフォームの番号を一つ上げて、

さあいよいよチャンスがあるかもしれない!

という状況でした。

そんな時にある日突然、連日40℃を超える高熱が続きました。
原因不明、白血病も疑われていたことはのちに知った話ですが、療養と精査のために検査入院となりました。

生検した結果は悪性腫瘍ではない、一種のリンパ節炎と診断されました。1週間程度の入院で済みましたが、大事な大会に参加することができませんでした。今となっては良き思い出ですが、チームで撮った写真にはユニフォームだけが写っています。

退院してから1週間もせず練習に戻ることができましたが、それからというもの身体が思うように動きませんでした。

病院での生活は想像以上に体力も落ちていて、自信があったはずの体力も失ってしまいました。期待にも応えられず、案の定次の大会ではユニフォームの番号が1つ下がりました。

これが中学生活最後の大会で、チームは劇的な逆転で地区大会優勝を果たし全道大会出場。

私は相変わらずベンチを温め、応援するという結果に終わりました。

それでも、メンバーと一緒に辛い練習を乗り越えたことは私にとって大切な思い出で、貴重な経験となりました。
おかげで、精神は鍛えられ、辛い時にこそ頑張れるようになりました。この経験があることで、大抵の問題は乗り越えることができます。

今のところ、当時の練習よりもキツいと思ったことはありません。

また、メンバーと一緒に切磋琢磨することが面白くて、自分自身も成長できると学びました。

高校生

〜挑戦せずにbetterを選ぶ日々〜

私は単位制をとっている高校へ進学したので、1年生から進路の話を耳にタコができるほど聞きました。
早い段階で進路を決めて履修科目を決める必要がありました。

漠然と医療系かな、と思っていました。理由は2つあります。

・病院が割と身近な場所だったから
・一人で生きられるから

4歳の頃の長期入院。
8歳の頃は、とび箱の着地で何故か骨折した左腕は運悪く骨がズレて手術。14歳の頃は、原因不明の高熱(一種のリンパ節炎)で入院し、小児科でサンタさんとクリスマス。

私は入院や病院が苦い思い出として残っていないです。

4歳の記憶はほとんどないけれど、嫌だったという記憶がないです。点滴の固定の部分に絵を描いてもらうのが好きでした。
骨折に関しては三角巾をして学校に行くのが何となく楽しかったし、手術に行く時も初めての経験に怖さと同じくらいのワクワクもありました。(全身麻酔のフレーバー選びが楽しかったです)
14歳の小児科入院では、先生が時間を見つけては勉強を教えてくれたし、楽しかったんです。

最初は薬剤師!なんて思っていましたが、学力不足はわかっていました。あまり人と話したくないし、検体と向き合っていたいからという理由で、臨床検査技師!と答えてみました。(当時知らなかっただけで検査技師さんも検査の際に患者さんと関わるお仕事です)

大学進学条件は学費が安いところ。北海道内の国公立で調べたら北大しかありませんでした。この時点で諦めてしまいました。

じゃあ、看護師かな〜。と看護師を選び、センター試験の科目も少なくて済む北海道内の看護大学が見つかりそこを目指すことを決めました。

「先生、私心理学に興味があるんです。」

と一度だけ本当に興味のあることを口にしたことがあります。

「就職ないよ」

と言われ何か間違っているような気持ちになってしまい、それ以降は全く口にせず蓋をしました。

一般受験から逃げたかった私は、北海道内の市立大学の推薦入試を受けましたが、不合格。原因は確実に小論文だとわかっていました。
試験に出発する前日に添削してもらった際には、

「もう受験やめたほうがいい」

と言われ、それほど絶望的に小論文ができませんでした。この時さらに、文章に対する苦手意識が強固なものとなりました。

結果として、センター試験を受験し、二次試験に小論文のない群馬の県立大学を前期受験。

面接のインパクトでもっていくしかないと言われ仕込まれていました。

「元気が一番、元気があればなんでもできる!」

と面接で全力で伝え、無事合格。

日本でも避暑地で有名な土地から、当時は日本で最も暑かった群馬県への進学が決まりました。

学校生活については、また人数が増えました。毎年クラス替えをする学校だったのでその度にクラスの雰囲気に馴染まなければ!と必死だったような気もします。あまり覚えていません。

ただ、単位制の高校でありクラスで行動するというよりは個人で履修するスタイルだったのでクラスで過ごすことはそう多くはありませんでした。
その時々で一緒にいる人は違ったかなと思います。

一人になりたくない気持ちがある一方、大勢の中に長時間いると色々なことが気になって疲弊するのも自分でなんとなくわかっていました。
空き教室や人がいない場所を探しては、一人で勉強するのを好みました。
大勢の人がいる場所で一人になるのは怖かったので、他のクラスまで友達に会いに行くこともありました。

部活動では、選択肢が割と広がっていました。
私はハンドボールか蝦夷太鼓に入りたかったです。ただ、バスケ部の見学に行ったらそのまま加入する流れになったので、高校でも部活はバスケに決まりました。

先輩がいる間は真面目に練習していましたが、中学校ほど全力で頑張ることはできませんでした。

先輩の引退後は顧問と部員の衝突も多く、私たちが2年生の一番練習すべき夏休みに1週間部活が休みになったこともあります。

中学生以降身体が思うように動かなくなってから、自信のなさはプレーにも顕著に現れていました。私が攻めても止められるし、ボールを持ちたくない・・・と言う気持ちで、試合に出ることが怖かったです。

人数が少なかったので試合は出ていましたが、中学生の時ほどの面白さはありませんでした。

試合も応援されているはずなのに、後輩や応援席からの声が気になって仕方がなかったです。私の場合は、いつも気持ちの調子が悪かったように思います。全然コントロールできていませんでした。

ただ、この状況でもやっていて良かったと思うことがありました。

練習が休みになってしまった夏休みの1週間に、なんとなく頑張りきれていない私が嫌になって毎日家の近くの川沿いをランニングしていました。

それを見かけて「頑張っている奴もいるんだな」と評価していただけたこともありました。

・積み重ねていくことには意味がある

と学びました。そして、自分が本当に困った時に助けてもらえることに繋がるということも。

大学生

〜求められるものに応えていた私に、自由が与えられて〜

小さな大学なので、ひと学年は他学部を合わせても120人程度。憧れのキャンパスライフとはかけ離れたものでした。
一人暮らしを始めて、今まで縛られていたものから一気に解放されました。

初めのうちこそ勉強したものの主体的に学習する力が求められる大学ではほとんど勉強しませんでした。単位が取れる程度に勉強して、バイトするか遊ぶ生活をしていました。一緒に卒業研究をしていた友人に、

「友美ちゃんって真面目そうで実は真面目じゃないよね」

と言われるぐらいだったので相当でした。

また、辛いことに耐える精神は中学校の部活で身につけていたし、世間がイメージするほど実習先の看護師さんも怖くなかったので実習はなんとか乗り切れました。国家試験前は流石に焦りを感じて、遅ればせながらも9月からしっかり勉強しました。

大学生の時は、全く違う環境から集まってきた人たちに出会うはじめての機会でした。地元の高校まで進学していたので、当たり前が全く違うことに驚かされました。良くも悪くも沢山刺激を受けました。

アルバイトは色々なことを経験しました。

・バンケットアシスタント
・コンビニ
・バル
・イベントスタッフ

エピソードがありすぎるので、その後の生き方に影響しているものを抜粋してお話しします。

バルでは「お前は目が死んでいる」と厳しくも愛を持って接してくれる店長から、お客様との接し方や表情の作り方を考える機会をもらいました。生きている目に見せるにはどうしたら良いだろう?本気で考えて、表情筋の動かし方を変えました。

一番面白く、学びが多かったのはイベントスタッフでした。3年目の3月から夢中になって4年目の9月ぐらいまではずっとイベントスタッフをしていました。好きな音楽や歌って踊るアーティストに関われる仕事だったし、大学の外に繋がりを持てたことも嬉しかったです。

ここで、初めて一緒に仕事をしたい!と思える人に出会いました。年下ですが、仕事に対して責任感があって常に向上心のある子です。
私は覚えが悪く、慣れるまでに相当時間がかかるタイプです。そして、不安が先行します。分からないことは全て聞きました。そんな私にも呆れず、

「聞いてくれることが嬉しい」

と言って丁寧に沢山のことを教えてくれました。彼女と一緒に仕事をすることが本当に楽しくて、関東圏から遠いときは新潟まで色々な現場に行きました。
炎天下のなかエアコンのないテントでチケットを売り続けたり、トラス(舞台を作るための部品)を走って運んで組み立てたり、どんな現場も彼女と行けば楽しく仕事ができました。
この経験から一緒に仕事をしたいと思う人と働く!という考え方は定着したように思います。

就活はほとんどしていません。立地と病院の綺麗さと直感で決めました。

看護師になってから

〜この世界で上手く生きていく方法を探して〜

1年目から2年目までは環境に慣れることに精一杯の日々でした。
私は器用ではないし、覚えも人より遅いタイプでした。どうしても周りの同期には遅れをとってしまうし、慣れるまでは「なんでそんなの間違えるの?」というミスを繰り返してしまいます。
当時は同期の仲も悪かったため、
(今は充分すぎるほどに仲が良いと補足しておきます)

「この世界で生きていくためには、自分の周りの環境を整えるしかない。」

そう思った私は、先輩にはもちろん、同期にも頭を下げて教えてもらう。周りになるべく敵を作らず、いつでも助けてもらえる環境作りに注力しました。ここでさらに、自分の意思ではなく相手が何を求めているのかを探すようになりました。

職場でのキャラクター「おかちゅー」はうまく生きる上で重要だったと思います。

そして、相手の状況や性格を見ながら声の掛け方を変えるという技術も身につけました。

「あの人は今どんな状況だから話しかけないほうがいい」
「この人の性格はこうだから、この伝え方をしたら気持ちよく仕事ができるだろう」

相手に合わせる技術の習得や、その場での正解を探すことができるようになったこと。他に目立つ人が常にいたこと。などもあり、人間関係でのトラブルは最小限に抑えることができました。私は割とこの世界で上手く生きていくことができたと思っています。

大きく変化したきっかけ

〜私を成長させるのはいつも悔しさだった〜

きっかけは大きく3つあります。

1つ目は、急変
2つ目は、別れ
3つ目は、再発

全てが重なって、ドン底だったから変わらざるを得ないという状況でした。

1つ目、急変

生涯忘れない急変を3年目の春に経験しました。
"急変"は何度か経験していましたが、今までとは違いました。
今でも当時の状況を鮮明に思い出せます。

できる限りのことはもちろんしましたし、受け持ち(その日の担当)が私でなければ結果が変わったという話でもありませんでした。

それでも、どうしようもない「無力感」と「悔しさ」に襲われました。

患者さんは軽い気持ちで入院していただろうし、ご家族もこんなことになるとは思っていなかっただろう。

「私じゃなかったら」
「もっと事前にできたことはあったんじゃないか」

と何をしたって変わらないとわかりながらも、自分で自分を追い込んでいたように思います。

加えて、毎日のように朝礼と夕礼で共有される今回の事例と病院全体に広がる噂、謎に広い情報網から入ってくるその患者さんの状況。そして、状態を知らせる紙一枚の報告。

正直限界でした。
唯一、最初から最後まで一緒に対応していただいた先生に言われた、

「受け持ちがおかちゅーでよかったよ」

の一言が、その当時の私を支えてくれました。感謝しかありません。

当時は、毎日出勤前は仕事に行きたくなかったし、仕事は生きるための収入を得るためだから辛くても仕方がないと思っていました。

でも、この経験から

「死はいつ訪れるかわからない。だからこそ生きる時間を大切にする必要がある」
「私が生きる今日は、誰かが生きたかった今日である」

と強く感じました。
このままの仕事への向き合い方や、生き方ではいけないと改めて思いました。

私自身が生きる時間も限られているからその時間は全力で生きたいし、生きているんだから何かを諦める理由なんてひとつもないと気付かされました。

2つ目、別れ

急変の裏で私にはもう一つ大きな問題が起こっていました。
当時の彼との別れです。

このことについては書くか悩みましたが、GOAL-Bとの出会いや私の変化を伝えるためには必要な内容だったのでここでお話します。

ひとしきり落ち込んで受容したら、最後に残った感情が「悔しさ」でした。

それは一つの疑問から始まりました。

「彼のように人生が毎日最高で楽しい人がいるのに、なぜ私は毎日しんどい思いをして生きているのだろう?」

純粋に人生を楽しんでいる人だったので、
「え、この違いって何?」と純粋に思いました。

そして、

「私がこんなに毎日しんどい思いして生きてるのって悔しいな。」

と思いました。

急変と別れで「悔しさ」が大渋滞。
絶対に変わってやる!!!と心に決めました。
(あれ?2つしかないじゃん!と思った方、すみません。後ほど3つ目出てきます)

そこからやったこと

〜行動あるのみ〜

変わってやる!と心に決めたものの、そもそも私が何をしたいのか、私が何をしたらいいのかがわかりませんでした。

ここで、なぜ?どうして?どうしたら?をたくさん深掘りして、自分と向き合いました。

彼が楽しそうに生きることができているのはどうしてだろう?と思い、軽い気持ちで当時オススメしていた「AKIOBLOG」のYoutubeを見てみました。
(連絡があまり得意でなかった彼が唯一毎朝「今日も最高の1日にしようね」と送ってきていたので、印象に残っていました。)

気になったことは調べ尽くすタイプなので、UPされている全ての動画に目を通して、GOAL-Bという会社とメンバーの存在を知りました。

AKIOBLOGの関連動画から出てきたなぎらさんの動画で、

「社長、やりたいことが見つかりません」

「挑戦の数が足りん」

納得しました。

「言い訳して初めていなかったことをやろう」
「全力でやっていないのに言い訳ばかりするのをやめよう」

やりたいと思っていたことを100個書き出して、できることから一個ずつ始めました。

・カメラ
・バスケ
・沢山の人に会うこと
・本を読むこと
・心不全療養指導士の取得
・BLS・ACLSの取得  など

趣味も仕事もやりたいと思ったことをとことんやりました。
また、全てをポジティブに変換するようにして、意図的にネガティブな言葉を発さないようにしました。

このように「悔しい」という感情はいつも私の原動力でした。

ただ、この時の私は、自分の限界がわかっていませんでした。
かなり無理をしたことが原因で11月頭に体調を崩しました。

これが3つ目、再発です。

14歳の時になったリンパ節炎でした。
今までは入院したり、春休み中だったり(大学生の時も一度再発)と安静にできましたが、不規則な勤務形態で仕事をしていたのでなかなか治りませんでした。
みんな大変だけど働いているし、仕事に行くからには具合が悪いという素振りは見せたくない。と頑張っていましたが、この時ばかりは本当に辛かったです。

今まで出来ていたことが、出来ない。薬が切れると動けない。
一時は休みの日もベッドから天気がいい空を眺めることしかできなくて、このまま治らないかもしれないと思うほどでした。

今までの私ならそこで悲観的になって終わりでしたが、「絶対に変わってやる!」と決めていたので、「こんなところで終わってたまるか!」という気持ちでした。そんな状況でも、本を読んだり資格の勉強をして少しでも前に進めるぞ!と思い行動することは絶対にやめませんでした。

身体的な健康が損なわれると、精神的にも健康でいられなくなります。健康第一だと身をもって知りました。

ここで、当時の職場を退職する意思を強固なものとしました。

元のように日常生活を送れるようになるまでには、半年かかりました。そんな状況でも、

・常に体調を気にかけてくださった病棟のメンバー
・資格取得のために症例を添削してくださった先生方
・大量の差し入れを持ってきてくれる同期

本当に私は周りの環境に恵まていると心から感謝しました。

看護師という仕事は、結論好きでした。
私が一番面白さを感じたのは、病態や治療。効率的な動きとスムーズな連携です。

薬を変更してどうなのか?呼吸器設定はこれで患者さんにとってベストなのか?それでINOUTや電解質のバランスは?意識レベルは?とアセスメントして、それを記録に残し先生のカルテで答え合わせをする。

なぜ?どうして?そのためにはどうしたらいい?を考えることが本当に好きです。

回診で気になることを報告し、投薬量が変更になったりするのが本当に嬉しかったです。
業務的な部分をいかに早く終わらせて、データや患者さんの状態をみるのかそればかりを考えていました。

これらは本来当たり前の事なんですが、慣れるまでに時間がかかる私だったので、看護に面白さを感じるようになったのは3年目の夏頃からでした。


GOAL-Bと繋がるきっかけ

〜なんとなくコメントすることから始まって〜

いち視聴者であった私が、どのようにGOAL-Bと繋がったのか。
結論から言えば、遼さんのInstagramです。

体調を崩しほぼベッドの上で生活していた私が、夜ふとInstagramを開いたら遼さんがルックアップ細井さん(当時の名古屋ジムインターン生)とインスタライブをしていました。閉館後のジムからの配信。視聴者7人。

「コメントください!!」

と視聴者7人に向けて、2人が全力でした。
流石にその人数だと、自分に声をかけられているようで、そして何よりかわいそうで・・・笑
一言コメントしたのがきっかけでした。その後、遼さんが私にDMをくれました。

「一度、お話しませんか?」

私は、これがチャンスだと思い

「せっかく話すなら名古屋まで行きます!」

と連絡して、名古屋に直接会いに行きました。久屋大通の松屋の前でまだ寒い3月の夜に3時間ぐらい立ち話をしました。そこで、

「一緒に働きましょう!」

と誘っていただき、その日は話を持ち帰りました。
正直嬉しかったけど、かなり悩みました。
看護師のキャリアを手放すこと、その後の生活のこと。不安もたくさんありました。

でも、「やらないで後悔するぐらいならやったほうがいい」その一心で2021年4月には名古屋に行くことを決めて遼さんへ連絡。
6月には職場を退職し、7月には名古屋に引っ越しGOAL-B名古屋ジムスタッフとしての日々が始まりました。


ジムスタッフから社員になるまで

〜私はGOAL-Bにどうやったら貢献できるんだろう〜

7月から働き始め、看護師派遣バイトをメインとしてジムスタッフを掛け持ちしていました。
看護師の派遣バイトで契約に関する問題が多かったことや、9月で契約期限を迎えることが重なり、改めてこれからを考えることになりました。

せっかく名古屋まで来たのに、看護師として再就職することで本当に良いのか?そんなの自分が自分を許せないと思いました。
10月からは看護師という道を一度完全に切って、GOAL-Bに注力すると決めました。

とはいえ、私はGOAL-Bが提供するサービスのどれも担うことができません。私なりにGOAL-Bに貢献する方法を考えて、実行することでチャンスをいただくことができました。

失業手当が切れるまでに、社員になれなかったら地元に帰る

これを自分の中で心に決め、退路を断ちました。
それから1ヶ月後に、色々なタイミングが重なって私が貢献できるポジションがあり、正式に社員メンバーになりました。

当時はたくさんのメンバーが私を支えてくれました。
特に黎玖くんが「友美さんも社員になるでしょ?」と真っ直ぐ疑いなく言ってくれたことは大きかったです。それ以外にも数えきれない後押しがありました。

私はいつも周りの環境に恵まれていると改めて感じました。
私一人の力ではできないことも、多くの人に支えられて実現できています。

私のこれから

〜私自身幸せになる。そして、幸せにする〜

GOAL-Bという組織で働くことは、毎日が変化の連続です。
慣れるのに時間のかかる私が、慣れる日は来ないかもしれません。
ある意味慣れない方がいいとも思います。

ただ、今はそれが面白いと感じています。
次から次へと目まぐるしく変化して、新しいことが降ってくる環境。
もはや降ってくる前に先を進めるように私も進み続けています。

また、私は今までの人生を長い間、他人軸で生きていました。

「この場合はこうすることが世間的にいいだろう」
「こうすれば、こう言えば相手が喜ぶだろう」

誰かが決めた正解を探そうと必死になっている間に、何がしたいのかわからない状態になっていました。

3つの幸せについて、教えてもらったことがあります。

「してもらう幸せはすぐに満たされる。自分でできる幸せを満たすのに、時間がかかり、その上でやっとしてあげる幸せを満たすことができる」

私は、自分でできる幸せをすっ飛ばしてしてあげる幸せを満たそうとしていたことに気づきました。それでも、根底私は多くの人を幸せにしたいと思っています。

私は今、とても幸せな環境で働いています。

・私のことを認めてくれている
・自分の才能領域の仕事をしている
・メンバーが最高で面白い

私が私自身を幸せにできる環境です。
まだまだ発展途上で、私がもっと追い求めたいものやそのためにやるべきこともちろんあります。

その上で少しでも多くの人が幸せだと感じ、その人らしい人生を歩むきっかけやお手伝いができます!

と、胸を張って言える私になります。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
文章を書くことに挑戦できて、ここまで読んでいただける方がいることを嬉しく思います。

岡中友美


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